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2008年5月

僧侶の仕事は葬式なのか? 2

ブッダ・空海の思想に入る前に、予備知識として
今の日本人がよく持つ、仏教への疑問や勘違いを扱います。

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よくある仏教の疑問 4
 僧侶の仕事は葬式なのか? 2

仏教の戒律の中に、僧侶は在家者の葬儀に関与してはいけない
というものがあります。
ブッダや空海の記録の中にも、僧侶の葬儀に関わったものは少しだけ
見受けられますが、出家していない人への葬儀には関わっていません。

そこで現在の日本仏教式葬儀では、死者をまず出家させ、
戒を授けて(授戒)、戒名を与えます。
これにより、死者は在家者ではなくなるので、戒律を破ることなく
僧侶は葬儀を行なうことができます。

おそらく当初は、在家者の葬儀を行なうために裏技的に考え出された
ものだと思いますが、現在では仏門に入れて戒名を与えることが
普通になっています。

多くの宗派では、葬儀の作法を引導作法といいます。
引導とは、衆生を菩提(悟りの世界)に導くことです。
僧侶に対しては、引導作法は行いません。

僧侶は、すでに戒を授かり僧名を持っています。
真言宗の場合、伝法灌頂を授かり阿闍梨(あじゃり)となります。
引導作法では、それと同様のことを死者に対して行なうわけです。

昨今、高額の戒名代などに対して批判や戒名不要論などもあるようですが
元々は、戒律違反を回避しながらも、在家の葬儀を行なうという、
妙案だったのかもしれません。

--- 次回は 「 僧侶は金儲けをしていいのか? 」 ---

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僧侶は金儲けをしていいのか?

ブッダ・空海の思想に入る前に、予備知識として
今の日本人がよく持つ、仏教への疑問や勘違いを扱います。

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よくある仏教の疑問 5
 僧侶は金儲けをしていいのか?

 本来出家者は、ごく一部の例外を除いて、自分の所有物はありません。
あらゆる執着から離れることが覚りへの道なので、「所有」という執着を
生み出すことはしないわけです。
当然、金儲けもしませんし、金を貯めることもしません。

 ブッダは、出家者が働くことは禁止しました。労働をしてお金をもらうのは、
欲と執着を生み出します。もちろん在家者が、自分の仕事をしっかりやって
金を得ることに何の問題もありません。

 出家者は金を稼げないので、この世での命をつなぐのは、ただ布施に
よってのみです。何かの対価として布施をもらってはいけません。
布施とは見返りを求めない行為であり、何かの対価ではないからです。

 ブッダは、医療の心得のある僧侶に布施が集まることを、戒めています。
身体が悪くなったら直して欲しいという思いから出た金品をもらうのでは、
出家者ではなく医者の仕事と変わらなくなるからです。

 このようなブッダの姿勢は、中国、日本で変化していきます。
中国では、「働かざるもの食うべからず」などと言われました。
修行者に対する布施が充分に集まらない地域では、
布施以外の手段がなければ、僧団の維持や修行の継続ができません。

 現代でも、タイ、スリランカ、ミャンマーなど上座部仏教国では、在家者が
喜んで布施をしますが、日本では、ほとんどの人が布施をしません。
欧米人はキリスト教的感覚でしょうが、寄付という行為は一般的です。

世界に40以上あるヴィパッサナーセンターでは、10日間の瞑想合宿を
食事・宿泊場所をつけて、無料で行なっています。
運営は、すべて寄付や布施によってまかなわれていますが、
世界でも有数の裕福な国である日本のセンターの運営は、
財政的にかなり厳しいといいます。

托鉢など布施の機会を提供することは、本来は僧侶の大切な役割です。
自身が布施するとともに、布施の機会を提供することが必要です。
しかし日本では、僧侶が托鉢をしていると嫌がられたりします。※1

このような環境の違いを考慮すると、単純に僧侶が金儲けをしていいとか
悪いとかは言えないと思います。

 個人的には、普段ほとんど布施をしないで、葬儀代や戒名代として
高額のお金を払うよりは、普段から法話などを通じて仏教の教えに親しみ、
それを人生の力とし、継続的に布施をしていくというスタイルを望みます。

 そうなれば、心ある僧侶は戒名代などで生活費を得るのではなく、
法を広め、人々の生きる力となることで、この世に生かされていくことに
なると思います。


※1 四国遍路ではお接待という無料の行為が、頻繁に見られます。
四国遍路に参加された多くの方が、何の見返りも求めないお接待を受け、
その素晴らしさを感じておられます。

このことから、布施や寄付などの無償の行為が少ないことは、
日本人の問題というより、環境の影響が大きいと考えられます。

適切な環境さえ整えば、日本人も、自ら布施や寄付を行なうという心を
持っていると思われます。

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仏様は、本当にいるのか? (ブッダ と 空海)

ブッダ・空海の思想に入る前に、予備知識として
今の日本人がよく持つ、仏教への疑問や勘違いを扱います。

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よくある仏教の疑問 6
 仏様は、本当にいるのか? (ブッダ と 空海)

 宗教の嫌いな人、信仰が信じられない人などから、時々、神さんや
仏さんというのは本当にいるのか?
どこにいるのだ?いるなら連れてこい、などと言われることがあります。
神さまは置いておいて、ここでは仏さまについて語ります。

仏とは、仏陀の最初の文字を取ったものです。意味は仏陀と同じです。
仏陀は、ブッダ(Buddha)という音に漢字を当てはめたものです。
ブッダは、目覚めた人という意味で、覚りを得た人のことです。
その意味では、覚りを得た人は、誰でもブッダと呼ぶことができます。

 現在、上座部仏教でブッダといえば、約2,500年前にインドに実在した、
ブッダ(お釈迦さん)のことを意味します。どこにいるのかと問われれば、
2,500年前に存在したとしか言えません。
 ブッダ以外の覚りを得た人は阿羅漢(あらかん)と呼ばれます。

 大乗仏教になると、観音菩薩、弥勒菩薩、文殊菩薩、薬師如来、
阿弥陀如来など、たくさんの仏が出現します。

 空海の始めた密教では、一番根本的な仏を「大日如来」とします。
「大日如来」とは、仏教の法(真理)を、仏という形にして現したものです。
ですから、法(真理)といっても、「大日如来」といっても、中身は一緒なの
ですが、法(真理)だと形がなく分かりにくいのに対し、「大日如来」だと
形があるので、扱いやすくなります。

 では、「大日如来」はどこにいるのかと言えば、空海は「心の中」だと
言います。
法(真理)は心にあるのであって、どこか外にあるのではないのです。
人間の外に神を立てるのではなく、あくまで自分の心を知るというのが
仏教なのです。

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仏教瞑想特別講座 1

仏教瞑想特別講座 1

本来なら、ブッダの思想を説明してから瞑想に入るのが自然ですが、
もうすぐ瞑想講座がありますので、今週は瞑想についてお伝えします。
講座に参加される方は、予習として読んでください。

初期仏教編

ブッダの瞑想法は、部派仏教時代に出来た初期仏教の仏典から
推察するしかありません。
初期の仏典の中で瞑想法を説いた経典としては、
『大念処経』(マハーサティパッターナ・スッタ) と
『出入息念経』(アーナパーナサティ・スッタ) が代表的です。
ブッダの瞑想指導も、ほぼこの経典に沿ったものだったと思われます。

『大念処経』には、「四念処」という有名な瞑想法が出てきます。
身体・感覚・心・法の4つを観る瞑想法です。身体を観る瞑想のなかにも
さまざまな瞑想法があり、全体ではかなりの数の瞑想法になります。
法とは仏法のことで、無常・無我など、この世界の現象の本質を、
ありのままに観る瞑想になります。

『出入息念経』は、「呼吸による気づきの経」とも言えます。
全部の16の呼吸法があり、その呼吸を通じて、身体・感覚・心・法の
4つの瞑想が出来るようになっているのが、ミソです。

ブッダは、ひとりの人にこれらの瞑想すべてをさせたのではなく、
その人に合った瞑想を指導していたと思われます。おそらく後世の人が、
ブッダのさまざまな教えを、このように体系的にまとめたのでしょう。
どの瞑想法によってでも、執着を離れ、苦を無くす道を歩むことができます。

今回は、四念処のなかから、身体を観る瞑想の一部をご紹介します。

  歩いているときは「わたしは歩いている」と知り、
  立っているときは「わたしは立っている」と知る。
  坐っているときは「わたしは坐っている」と知り、
  臥せているときは「わたしは臥せている」と知る。

文字で表すと単純ですが、実は、メチャクチャ深いです。
わたし達は普段、無自覚に無意識に動いています。お茶を飲む時に、
カップを口に運ぶために、手を動かそうとは考えないはずです。
手は無意識に動きます。このように、私たちの身体や心は、
自己のコントロールを離れて存在しています。

身体を観るとは、今この瞬間の自身の状態や動きを、意識的に、
そのままに観ることです。

あるがままに見る ということが瞑想の基本となります。

--- 次回は 「 上座部仏教の瞑想法 」 ---

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仏教瞑想特別講座 2

上座部仏教編

伝統を重んじる上座部仏教(ミャンマーなどの南伝仏教)では、
初期仏教の経典を中心とします。
瞑想においては、『大念処経』(マハーサティパッターナ・スッタ)や
『出入息念経』(アーナパーナサティ)は、やはり重要です。

一方で上座部仏教では、新たな瞑想法を生み出して来ました。
現在の上座部仏教では、5世紀にブッダゴーサが著した『清浄道論』が
重要な経典となっています。
瞑想もこの経典を論拠として考えているところがあります。

最近では、「ヴィパッサナー瞑想」を重要戦略商品のような感じで、
世界に広めています。
初期の経典には、サマタとヴィパッサナーという言葉があり、
漢訳では、「止観」となっています。
サマタ(止)は精神の集中力、ヴィパッサナー(観)は、
洞察力(洞察智)を意味します。

初期経典には、「ヴィパッサナー瞑想」という名前では出てこないのですが、
ブッダの瞑想法の独自性は、「ヴィパッサナー(観)」にこそあるので、
非常にうまいネーミングだと思います。

「ヴィパッサナー瞑想」のなかにも、流派のようなものがあります。
日本で経験できるものとしては、マハーシ長老が考え出した方法と
ゴエンカ氏が広めている方法が有名です。
最近は、パオ・メソッドという別の方法を指導している人もいるようです。

これらは、『大念処経』や『出入息念経』に書かれている方法を、より分かり
やすく取り組みやすいように再構成したものと、考えることができます。

これに対して、「伝統を重んじているのに経典の教えを変更している」という
批判もあります。確かに「ヴィパッサナー瞑想」は初期の経典そのものでは
ないのですが、その意図するところは引き継いでいるので、個人的には
このような変化は、多くの人の益になることだと考えています。

ただ私が知る限り、どこの流派も「ヴィパッサナー瞑想こそブッダが考えだした
瞑想法です」と説明するので、今のやり方を2,500年前から続けていると、
勘違いしている人が多いように思います。

マハーシ長老は1900年代の方ですから、当然その瞑想法は
1900年代に考えられたことになります。
現代人に合った新たな瞑想法を考え出されたということは、とても
素晴らしいことであり、それはブッダの教えの基に生み出されているの
ですから、それはミャンマー上座部が世界に誇れることだと思います。

ゴエンカ氏の瞑想法は、サヤジ・ウ・バ・キン氏から受け継いだとの
ことですが、これも、四念処を見事に簡略化しています。
ゴエンカ氏の瞑想法は、最初は10日間の合宿が前提ですが、
世界40カ国以上で実施され、かなりの成果を出しているようです。
 
瞑想をマスターするという観点からすれば、10日間というのはあまりに
短い期間ですが、それでもそれなりの成果を出しているのは、
短期間用にまとめられたプログラム構成が優れているからでしょう。

日本では今まで、禅宗の坐禅以外には仏教瞑想に触れる機会が
ほとんどありませんでした。
このように瞑想に触れる機会が増えていることは、
大変喜ばしいことだと感じています。

--- 次回は 「 密教瞑想法 」 ---

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仏教瞑想特別講座 3

密教編

 上座部の瞑想が初期仏教の瞑想法を基本にしているのに対して、
密教ではより大胆な変革が見られます。
日本に伝わった中期密教とチベットの後期密教では瞑想法に違いが
あるのですが、ここでは中期密教を基本にして、空海を祖とする
真言密教を前提に話をすすめます。

密教瞑想(観法)の基本は、「仏そのものになる」ということです。
理想が仏だとしたら、「私はその仏そのものである」というのが、
密教の世界です。

 その瞑想法(観法)とは、「三密の加持」です。
身体・言葉・心の3つの働きを、理想とする仏と同じにする、
これを三密加持といいます。
空海はこれを、入我我入(仏が我に入り、我が仏に入る)とも表現しています。
この仏と自身を同じくする(合一する)ことを、ヨーガといいます。

つまり、密教瞑想(観法)とは、ヨーガの技法によって理想である仏と一体と
なることにより、今、この身このままにおいて仏となる、ということです。
もう少し教義に即して言えば、
「仏と一体になることによって、自身が本来仏であることに気づく観法」
と表現することもできます。

具体的には、仏の姿として手に印を結び、口にその仏の真言(マントラ)を
唱え、心に仏を観想します。
密教には多くの仏がいますが、その仏ごとに、印(手の形)、真言、
持っている徳や智慧が異なります。
身口意の3つがセットになっているところがポイントです。

歴史上の人物では、戦の天才上杉謙信の毘沙門天信仰が有名です。
密教的には、上杉謙信は、毘沙門天そのものとなり、毘沙門天として
戦の指揮を取ったと考えられます。
自身が仏そのものになる(仏そのものである)というのが密教であり、
密教瞑想は、まさにその実践となるわけです。

 さまざまな象徴を使うのも、密教瞑想の特徴になります。
護摩では火を焚きますが、これもひとつの瞑想です。
マンダラや掛け軸などを使った瞑想もあります。

象徴はあくまで象徴であることを理解しておくことも必要です。
最終的に「法を観る」ことが大切なのは、他の仏教と同じです。

この象徴だけを見て、「密教は仏教から外れている」と批判されることも
ありますが、象徴の意味するところを見ていくと、意外と初期の仏教に
近かったりします。

元々密教瞑想法は、一般在家には公開されてきませんでした。
現在、阿字観という密教瞑想法が、あらためて脚光を浴び、
在家の方にも公開されるようになりました。
しかし阿字観をやる僧侶は、まだまだ少ないようです。

今後、密教瞑想法が正しく、一般の方々に広く普及していくことを
願っています。

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信仰よりも理解

本日より、ブッダの思想を順次お伝えしていきます。
ブッダが終われば、空海の思想へ移ります。
ブッダと空海の思想は、同じところもあり、異なるところもあります。

私は両方学んだ方が良いと思うのですが、宗派という枠組みでは、
難しいものがあります。
(真言宗では、ブッダについてそれほど詳しくやりませんし、
上座部では空海(密教)の名前すら出てこないでしょう。)

ここでは、宗派を超えて、自由に説を展開していきたいと考えています。

信仰よりも理解

 宗教というと信仰、それは普通の感覚でしょう。
信仰というのは、分けも分からないものを信じること、と一般的には思われているでしょう。

しかしそうだとすると、ブッダの教えは、日本人が考える宗教とは、少し赴きが違うようです。
ブッダは、覚りの構造を明らかにし、覚りに至る修行法を明らかにしました。
それを理解し、やってみようと思うなら、修行に取り組めばよいと考えます。
修行が進めば覚りに到着します。
しかし何かを信仰すると覚りを得られるという教えではありません。

修行を進めるには、「信」が必要です。指導者への「信」、指導法への「信」。
「こんなことで本当に覚りを得られるのかな?この指導は正しいのかな?」
と疑いながら修行をしていては、修行の効果は低くなります。
これは、スポーツなどでも同じことです。

ブッダは、信仰よりも理解を求めます。
智慧と体感と信仰を比較し、ブッダは智慧に最高の価値を置いています。
本当にブッダが言っている事、僧侶が言っていることが正しいのか、
信頼をおけることなのか、よく聴いて、よく考えて理解することが大切です。
理解できないことを、無理やり盲信することは危険です。

しかし、ひとたびこの道で行くと決心したならば、迷わず精進することが必要です。
どんな芸事、スポーツでも同じことです。

アントニオ猪木も言っています。
「この道を行けばどうなるものか。 危ぶむなかれ、危ぶめば道はなし。
踏み出せばその一足が道となり、その一足が道となる。
迷わず行けよ、行けばわかるさ。ありがとう!! 」 by アントニオ猪木

いくぞー!! 1・2・3 ダー!!

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盲信と信仰の区別 

ブッダの考えは、「信仰よりも理解」と書きましたが、
信仰がないわけではありません。
信仰すれば救われるという発想がないだけで、信仰そのものはあります。

 では、信仰が盲信にならないためには、どうすればいいでしょうか?
そのためには、事実と論理と信仰の区別を明確に持っておくことが
必要だと考えます。
そして事実を信仰によって、捻じ曲げないことが大切です。

仏教は、ものごとをありのままに見ることを基本とします。
ですから、事実は事実としてありのままに見ます。
事実を否定したら、それは仏教ではありません。
科学的に証明されたことを否定することも仏教にはありません。

しかし、何が事実なのか知ることは、実はたやすくありません。
多くの人は、事実でないことを事実と思っています。
論理的に正しいと、それを事実と混同してしまうこともよく起こります。

仏教は極めて論理的な宗教です。
世界最高レベルの数学力を持つインド人の中で、論争を繰り返して
生き残るためには、論理的であることが求められます。
情緒的に受け取る日本人とは、そこがかなり違っています。

しかし仏典に書いてあることがすべて事実かといえば、そうではありません。
そこには、想像、直観、比喩、矮小、肥大、神秘体験、など
さまざまな記述があります。仏教は科学ではないのです。

科学教の信者は、科学と言われると簡単に信じてしまいます。
仏教は精密な論理で組み立てられているので、それを前面に出して、
科学のように説明、布教、勧誘することも可能です。しかし、
科学的と言われると、中身も確かめずに信じるのでは、盲信と変わりません。

世のなかには、事実が分からず、論理でも証明できないことがあります。
仏教は、分からないことは分からないと、そのままに認めます。
仏教は、ものごとをありのままに見ることが基本なのです。

宇宙の始まりは分かりません。ビッグバンだとすると、
ビッグバンの前は分かりません。
宇宙の果ては、想像することができません。
死後の世界は、証明することができません。

ブッダは、これらの問題に対して、「無記」として答えません。
空海は、これらの問題を「不可得」としたうえで、
「不可得」である存在そのものを引き受けます。

証明ができなければ科学は成り立ちませんが、
証明がなくても信仰は存在します。
そして信仰のあり方はさまざまですが、明確な認識の上に
信仰は成り立っています。

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如実智見 ~あるがままに観る~

如実とは「あるがまま」ということ、如実智見とは、
「あるがままに見、あるがままに知る」という意味です。
仏教において一番基本となり、かつ最も重要なことのひとつは、
この「如実智見」です。

仏教は智慧の宗教と言うこともできます。この場合の智慧とは、
単なる知識ではなく、ものごとの本質を見抜くような力、
洞察力などを意味します。

覚りとは、真実を知ることであり、それは「如実智見」によって成されます。
あるものをあるがままに見ることができなければ、
覚りを得ることはできません。

人は見たくないものは見ないようにし、見たいものを見たいように見る
性質があります。
それでは真実は見えません。
偏見や思い込み、自分の価値観を離れて、ものごとを見ることが必要です。

自分自身の心も同じです。
自分の心を、いつわりなく、そのままに見ることができれば、
さまざまな不安や悩みは消え去り、覚りに近づくことができます。
多くの人はそれができないので、自己理解が充分に進みません。

「如実知見」は、人が生きていく上で、とても重要なポイントなのです。

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執着を離れる

 人々に苦しみがある大きな原因は「執着」です。
仕事、趣味、食べ物、持ち物、子供、恋人... どんなものであっても、
それに執着すると、そこから苦が生じます。

何かを失いたくない、手放したくない、と思ったら、
その瞬間からそれを失うことを怖れ、それに執着します。
今何かを持っていても持っていなくても、そのことを手放していれば、
苦は生じません。

覚りを得た人は、完全に執着を無くした人です。
それは無理としても、今より執着を少なくしていけば、
それだけで心は軽くなります。

何でも自分のものだと思っていると執着が生まれます。
ブッダは、自分の身心すらも自分のものではないと観ました。

一時的に縁によって生じているものは、また縁によって消え去っていく。
その理(ことわり)を観る人は、執着を無くしていくでしょう。

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人生は「苦」であるとは

ブッダは、人生は「苦」であると言いました。
これは、なかなか一般の人には理解されないことです。
「いや、人生楽しいこともあるよ」と思うでしょう。

確かに人生には楽しいこともあります。だから楽しいことだけを
考えていたい、というのが普通の人でしょう。
しかし、「生きる」ということを、ありのままに見るならば、
そこに必ず「苦」が存在するのです。

「苦」がまったくなく、快楽だけが存在することはありません。
苦しみがあるから、それを克服した時の喜びや楽しさを
感じるのであって、もし永遠に快楽が続いたら、人はもはや
それを快楽と感じません。

だから、人は快楽を続けたいがために、もっと、もっとと、
欲求を膨らませていきます。
しかし、そうなればなるほど、その欲求を満たすことは
難しくなり、満足は得られなくなります。

そもそも「苦」とそれに対する「喜楽」がなければ、
生命を維持することもしなくなります。
腹が減って、そして食べると美味いから、必然的にそういう
活動が生まれるわけで、何も食べなくても苦しくならないなら、
あえて食べないでしょう。

「空腹は最大のスパイス」と言われるように、腹が減らないので
あれば、美味しいと思うこともなくなっていくでしょう。
これでは、生命存続の危機です。

スポーツ界では、よくハングリー精神が足りない、などと
平気でいいますが、要は、もっと苦しめということです。
実は「苦」がなければ人は動かないということを、
分かっているわけです。

ブッダは、ありのままに世界を見ることで、生命の根元にある
「苦」を見つけ、生きることが「苦」とともにあると観ました。
同時に、その「苦」は無くすことができると言いました。
それが覚り、解脱への道であり、涅槃への道、修行の道なのです。

といっても完璧に「苦」をなくすことは、生きる活力そのものに
関わる問題となります。
だから瞑想では、苦を減らし、喜や楽を感じるところを
初禅(最初の瞑想段階)としています。

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