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ヴィパッサナ-瞑想合宿 感想と報告

ゴエンカ氏のヴィパッサナー瞑想合宿(全12日間)に参加してきました。
ヴィパッサナー瞑想については、このブログでも何度か書いていますが、お釈迦さんが悟りを啓くのに使われたと言われる瞑想法で、今でもテーラワーダ仏教で伝統的に行われています。
(厳密に言えば、現在のヴィパッサナー瞑想と、ブッダの瞑想法は異なりますが。)

 ヴィパッサナー瞑想のメッカはミャンマー。そして近年アメリカでもかなり普及してきていると聞きます。アメリカは元々「禅」がかなり普及していますが、ヴィパッサナー瞑想は非常に論理的であり、その辺りがアメリカ人に受けているのではないかと思います。

 ひと口にヴィパッサナー瞑想といっても、実はいろんな流派があります。ミャンマーには多くの瞑想センターがあり、各自が自分にあったセンターを探し、そこで修行しているようですが、日本ではまだヴィパッサナー瞑想を教えるところは数少ないようです。

 今まで、マハーシ式のヴィパッサナー瞑想をやっていたのですが、ゴエンカさんはまた別の方法でやっていると聞いていたので、どんなものか楽しみに行きました。ゴエンカ式は、10日間の合宿が前提です。到着日と退出日を入れると12日間拘束されることになります。

 10日間の合宿中は沈黙行です。特に参加者同士の会話は全く無く、目を合わせることも、ボディランゲージも一切禁止、「聖なる沈黙」を守ります。
 当然テレビなどはなく、音楽、携帯電話、雑誌、筆記、等はすべて禁止です。食事は、朝と昼の2回のみ、これは伝統的な仏教の食事であり、瞑想に適した食事だと言われています。

 ゴエンカ氏のコースの特徴は、すべてが布施で賄われているということです。
 10日間宿泊し、食事も出ますが、規定の参加費用というものはありません。
 この瞑想法、このコースが素晴らしいと思う人々の善意と慈悲の心から出された様々な布施によってコースは成り立っています。コース運営を支えるスタッフや指導者がたくさん来られますが、それも布施のひとつの表れです。
(慈悲の心でお金を出すことも布施なら、労力を提供することも布施になります)。
参加者も各自の心に従って参加費用を支払います。

 現在、世界に40以上のセンターがありますが、すべてこのようなシステムで運営されています。

 日本では、京都にセンターがありますが、現在使用できないため、各地で場所を提供していただきコースが行われています。今回は、和歌山県の那智にある、「禅定林寺」という天台系のお寺を借りて実施されました。京都では70名くらいが受講するようですが、こちらでは場所の関係で、30名弱の人数で行われました。

日本ヴィパッサナー協会のホームページ
http://www.jp.dhamma.org/index.html

(注:テーラワーダ仏教:上座部仏教や南伝仏教とも言う。ミャンマー、タイ、スリランカなどに伝わる伝統派仏教。小乗仏教と呼ぶこともあるが、小乗には小さなレベルという蔑視の意味合いがあることと、元々大乗仏教が小乗仏教として批判したグループは、現在のテーラワーダとは異なる部派仏教が中心であると考えられることなどから、近年は小乗仏教と呼ばない傾向にある)


ヴィパッサナー瞑想の感想


 ゴエンカ氏のヴィパッサナー瞑想は、『アーナーパーナーサティ』や『大念処経』という経典をベースにしている。
しかし経典そのままではなく、10日間という短いパッケージにしていることが大きな特徴である。

『大念処経』では、「身体、感受、心、法」の4つを観る「四念処」という瞑想を行う。
ゴエンカ氏のヴィパッサナー瞑想では、感覚が身体と心をつなぐという理論のもと、感覚のみを観る。
これは『大念処経』そのものではないが、10日間ということを考えれば、すぐれたやり方だと思われる。

 本来ヴィパッサナー瞑想の修行は、瞑想センターなどで何年にも渡って続けることで身についてくるもので、10日やそこらで身につくようなものではないだろう。
 しかし出家者でもなければ何年にも渡ってセンターで修行することはできないだろうし、10日間という短い時間のパッケージを作っていることは、ヴィパッサナー瞑想の普及に大いに役立っていることだろう。
 まずは、10日間で試してみて、気に入れば何度も参加することで、レベルアップすることが可能である。(古い生徒(リピーター)と新しい生徒では、瞑想の指示が少し異なる。)古い生徒のための別のコースも用意されている。

 ヴィパッサナー瞑想というのは、覚りの内容と覚りを得るプロセスを非常に合理的に説明してくれる。しかし説明が合理的であることと、実際に身につけることとは全然別のことである。ゴエンカ氏の話の中にもあったが、この瞑想法は心の根源的な部分を扱うだけに、ある意味では非常に難しい瞑想法である。

 しかし昔のインドの出家者のように、瞑想に人生を費やすわけにはいかない。(ミャンマーには今でもそのような瞑想センターがあるらしいが)
 マハーシ式やゴエンカ式が流行るのは、内容を簡便化して、在家の人間にも参加しやすくしたからであろう。
とはいえ、日本の今の現状では、まだ敷居が高いところもあると思われる。
コース終了後は、朝夕1時間ずつ、日に2時間瞑想をするように指導される。
何割の人が日常に戻って瞑想を続けるであろうか? 
こういうのは習慣になってしまうと、どうということはないが、そうなるまでは困難に感じるだろう。

 瞑想が進めば、睡眠時間も少なくて済むので、2時間瞑想しても時間が足りなくなることは無いと言っていた。また、仕事も迷わずにスムーズに行うことができるので、2時間瞑想に使う意味は大きいという説明もあった。それはその通りであろうが、瞑想の効果は人によってかなり異なってくるであろうから、実感されるまでの継続がひとつの鍵になるであろう。


ヴィパッサナー瞑想と精神療法

 ヴィパッサナー瞑想は、精神的な病を治す方法としても注目されている。ゴエンカ氏がそもそもヴィパッサナー瞑想を始めたのは、精神的な病が続き、どの病院に行ってもどの薬を飲んでも治らず、その病を治したかったからだ。

 しかし、ゴエンカ氏が瞑想によって病気を治したいといった時、指導者から、それなら病院に行けと言われたそうだ。ヴィパッサナー瞑想は、苦や執着を離れ、悟りへの道を歩むもの。病気の治療方法ではない。そのことを理解しなければ、瞑想センターに入ることは許可されなかったそうだ。

 この指導は非常に適切だと思う。ヴィパッサナー瞑想は、あらゆる反応・執着から離れる瞑想だから、それが身につけば、論理的には精神的な病気は治る。しかし病気を治すために瞑想をするのでは、病気を治したいという欲が常に存在し、執着から離れることはできない。これでは瞑想の意図と実践者の意図が異なってしまう。

 これはひとつのパラドックスだが、病気を治したいという想いを離れ、純粋にヴィパッサナー瞑想を行う時、病気も治るという現象が現れるであろう。
 もっとも、最近アメリカでは、「精神的治療のためのヴィパッサナー瞑想」などというのもあるそうだ。初めから治療を意図して行うのであれば、それもいいだろう。おそらくそういうセンターの指導者は、精神医学的な知識にも長けているであろう。

 実は心理療法の中に、極めてヴィパッサナー瞑想に似ているものがある、「フォーカシング」という手法である。最初やり方を聞いたときは、ヴィパッサナー瞑想を真似したのかと思ったが、そうではなく、全然異なる経緯で出来たもののようだ。心理療法の場合、フォーカシングだけでなく、クライアントに合わせて他の手法も組み合わせられるのがメリットだ。

 残念なことに、医学、心理療法、仏教瞑想の全てに通じている人はほとんどいない。だいたい、この中のひとつしか知らない。そして何かひとつうまくいくと、それを万能のごとく勧める人がいる。

 例えばヴィパッサナー瞑想で病気が治ると、医学を否定して、ヴィパッサナー瞑想さえやっていれば、必ず治るんだ、みたいなことを言い出す。一つの心裡療法(例えば認知療法)しか知らないのに、それがだめだと、すべての心理療法がダメみたいに言う人がいる。
 このような態度は、あまり建設的とは思えない。自分の観点を狭くすることなく、メタな認識でものごとを見ていくようにしてもらいたいと願う。

ヴィパッサナー瞑想を日常に活かす
 さて、結局ヴィパッサナー瞑想をどのように活かしていけばいいだろうか?
テーラワーダの修行者なら、覚りを目指して瞑想に励むに限る。テーラワーダの信者なら、瞑想をしながら、この世は無常であり無我であることを理解するように努める。ブッダが言ったことは、結局はそこに落ちつく。

 それ以外の一般の人々に、ヴィパッサナー瞑想はどのように役立つだろうか?
瞑想指導を受けた人は、継続可能な範囲において瞑想を実践することが大切だろう。一時間出来なければ、30分でも15分でもいいと思う。一日の中に瞑想の時間を少しでも持てれば、それで価値は充分あると思う。

 瞑想指導を受けた人も受けていない人も、日々の思考や反応に、ヴィパッサナーの考えを取り入れるようにするといいだろう。ブログ「最終日 これこそが修行」が参考にならないだろうか。

 怒りや嫌悪、強欲、嫉妬、悲嘆、絶望、後悔などを感じたら、すぐヴィパッサナーする。
感情や反応を押し込めない。無視しない。押し込めていると、いつか爆発する。

 ゴエンカ式なら、身体の感覚を感じる。どこかに変化があるはずなので、それをじっくり味わう。よく観察する。
 マハーシ式なら、今自分が感じていることに意識を向け、言葉にする。
どちらでも、やり易い方でいいと思う。要は、自分の中に起こっている感情的反応や思考に気づけばいいのだ。

 一般的には、たぶんマハーシ式の方が分かりやすい人が多いように思う。マハーシ式では、感受から反応・思考への流れを意識化するため、やっていることを自覚しやすい。

 ゴエンカ式は感受だけに意識を向けることで、結果的に反応の起こりが消えているという感じだ。気がついたらそうなっていたという感じだろうか。それだけに感覚そのものを感じることが出来ない人にとっては、何をやっているのか非常に分かりづらいだろう。

 逆に感覚そのものを感じられる人にとっては、マハーシ式で使う言葉は不要に感じるかもしれない。言語を入れると意識化はしやすいが、言葉によって感覚そのものが誤魔化されやすくなる。

 今回参加されたリピーターの中に、ヴィパッサナーに言葉を使う理由が分からないと言っている人がいた。その人は始めて参加したときに、全身を構成する微粒子とその動き流れが見えたそうだが、その人にとっては、たぶん言葉は不要なのだろう。

 しかしいずれにせよ、ヴィパッサナー瞑想に大きな価値があることに間違いはない。
 現在、世界の仏教界の流れは、テーラワーダ(小乗仏教)、大乗仏教、禅、チベット密教などの区別が無くなる傾向にあるという。これは、禅、ヴィパッサナー瞑想、チベット密教などを取り入れてきたアメリカにおいては、宗派という概念がなく、良いもの、効果のあるものであれば、何でも取り入れる傾向があるからである。

 チベットではそもそも、密教の前に、テーラワーダや大乗を修めるのが基本であり、密教と他の仏教が対立するという構図ではない。(だから、ダライ・ラマはテーラワーダを否定しない)

日本では、独特の仏教システムが構築され、宗派の力がまだまだ大きい。
逆に、テーラワーダ仏教こそ真理で、他はすべて間違いであるという新興宗教的な動きも見られる。
ヴィパッサナー瞑想至上主義におちいって、他を否定するのでは、ブッダの道から遠ざかるだけである。

 仏教界に伝わる瞑想法という偉大な遺産が、特定の宗教・宗派のものとならず、広く多くの人のためになることを、切に願うものである。

注:
ここでいうマハーシ式、ゴエンカ式は、あくまで10日間レベルを前提とした話であり、これがこの瞑想法の全てではない。その後の展開について、マハーシ式はマハーシ長老著の「ミャンマーの瞑想」が詳しい。
ゴエンカ式に関してはよく分からないが、基本的には『アーナーパーナーサティ』や『大念処経』の世界に近いものと思われる。

ゴエンカ氏は、ゴエンカ式ヴィパッサナー瞑想以外の瞑想や気功を指導している人は、一度しか参加を認めない。
マハーシ式ヴィパッサナー瞑想、禅、密教瞑想、気功、太極拳、レイキ、ヨーガ、催眠療法、ヒーリングなどを指導している人に、2度目の参加はない。したがって、僧侶も基本的には参加できないことになる。

私は参加できないので、古い生徒(リピーター)としての感想は、残念ながら書くことができないままである。

(2008.8.23更新)

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