ヴィパッサナー瞑想合宿日記
12日間のヴィパッサナー瞑想合宿の様子を日記(ブログ)に書いたものをまとめました。
合宿中はメモを取れないので、記憶の断片をたどってのレポートです。
合宿初日
一日のスケジュールは決まっている。
4:00 起床
4:30~ 6:30 瞑想
6:30~ 8:00 朝食 (お粥とパン、古い生徒はフルーツ有)
8:00~11:00 瞑想
11:00~13:00 昼食
13:00~17:00 瞑想
17:00~18:00 休憩 (新しい生徒はフルーツを食べられる)
18:00~19:00 瞑想
19:00~20:30 ゴエンカ氏の講義(テープ、日本人は日本語に訳されたもの)
20:30~21:00 瞑想 (翌日の瞑想内容が指導される)
21:00 就寝
朝4時にチ~ンと鐘がなる。意外とすぐに起きられる。ほとんど無言で過ごすので、合図はすべて鐘を使う。4時半から瞑想だが、瞑想中に睡魔がやってくる。
入ってくる息と出て行く息をただ観察する、アーナパーナという呼吸を見る瞑想である。密教やヨーガの呼吸法のように、呼吸をコントロールしないのが特徴である。自然に呼吸をし、それを観察し続ける。普段から瞑想の一つとして行っているので、これは想定内のトレーニングだ。
朝食はお粥。日本の仏教教団でも、修行時の朝はお粥と決まっている。
各自が好きなものを好きなだけ取って食べる。
昼食はおでん。辛子とのマッチングが非常に良く美味しい。少し食べ過ぎたか?
ゴエンカ氏の話は、日本語に訳されたテープを聞く。ゴエンカ氏は聴衆のいるところで、ユーモアを交えて話しているようだが、訳されたものだけを聞くと、少し変な感じもする。1時間半は長くて眠い。メモを取ることは出来ない。初日の講義内容はよく覚えていない。
呼吸を見る瞑想はいつもやっていることなので、違和感は全然ないが、さすがに朝から晩まで瞑想していると疲れる。夜9時にはすぐ寝てしまう。
合宿二日目
今日も元気に4時起きだ。
朝の瞑想は部屋でやってもいいのだが、とりあえず瞑想ホールに行ってやる。
今日は息を吸うときと吐くときに、空気が接する部分を意識して見続ける。アーナパーナー瞑想に変わりはないが、意識する部分(見続けるところ)が、より精緻になっている。
朝は足がムズムズして落ち着かない。意識を集中しようとするあまり、神経がやや高ぶっているように感じられる。朝食後の瞑想を正座で行ったところ、足のムズムズが消えて、いい感じになってきた。
朝食は お粥とパンがあった。お粥と梅干しというのもいいし、パンも美味しい。
昼食は トマトソースのパスタ。午前中の瞑想の時、ミネストローネの香りがしていたが、これだったか。そんなこと考えているようじゃ瞑想になっていないのだが、鼻に意識を集中しているから、匂いには敏感なのだ。
ちなみに 朝の瞑想は眠い。昼の瞑想は暑い。ということで、少し涼しくなる18時からのグループ瞑想が一番集中していたように思う。しかし二日間座り続けたせいか、足(特にヒザ)がメチャクチャ痛くなってきた。
ゴエンカ氏の話は、戒と禅定の話し。仏教では、「戒定慧」といって、戒を守って禅定の境地を得て、覚りの智慧を得るというのが基本。ヴィパッサナー瞑想を修行するにあたって、なぜ戒を守る必要があるのか、禅定の境地が必要なのかを話していたと思う。
仏教には八正道(八聖道)という八つの守るべき道、修行の方法があるが、その中から戒と定を話していた。
ゴエンカ氏の言葉(日本語訳)は覚えていないが、一般的な仏教用語で言えば、
正語(しょうご) 正しい言葉。実のある言葉。
正業(しょうごう) 正しい行い。
正命(しょうみょう) 正しい生活。
正精進(しょうしょうじん) 正しい努力。悟りに向かった努力
正念(しょうねん) 正しい覚醒。正しい修業を心に保ち忘れない。
正定(しょうじょう) 正しい精神統一。
合宿三日目
今日は、上唇の上から鼻にかけた三角形の部分を徹底的に意識する。これは辛い。
10日間の中で最悪の日だった。鼻に意識を集中すると、鼻の上に重~い感じが乗っかって、非常に気分が悪い。小学校の時に眼鏡をかけさせられると、鼻と眼鏡が接しているあたりが過度に緊張して、鼻に常に暗雲が圧し掛かるような感じがしてすごく嫌だったのだが、その感じを思い出した。
質問タイムがあるので、指導者に辛さを訴える。鼻の下、上唇の上のあたりを意識するように言われたが、気分は悪くなる一方であった。
昼食は 野菜カレー。インドっぽい料理は、仏法修行に良く似合ってる。食事のスタイルは実に自由。禅寺の修行では、食事の作法にメチャクチャうるさいが、ここではそういうことは一切なし。
ゴエンカ氏の話は、「戒定慧」の智慧の話し。
八正道で言えば、
正見(しょうけん) 正しい見解。
正思(しょうし) 正しい思惟。
智慧(般若)には、3種類あるという。
1.宗祖や信頼する人が言うから、正しいと信じるレベル。いわゆる信仰のレベル。
2.正しいと信じたものを自分の頭で考えて、判断するレベル。なぜ正しいのか説明することが出来る。何を言われても、自分の信仰する宗教の正しさを力説する人もこのタイプ。
3.自分の体験を通じて、正しいことを理解するレベル。
仏教では、本来、信仰というものに重きを置いていない。(信仰を否定しているわけではないが)
それよりも、自らの体験による理解が大切である。だから、瞑想という体験を通じて理解することが求められるわけだ。
日本に入ってきた仏教では、少しニュアンスが違っていて、信仰を重視するところが多い。信仰心こそ宗教の根本であるとする宗派も多いと思うが、お釈迦さんはそうは考えなかったようだ。
合宿四日目
前半は上唇の上鼻の下の小さな部分を意識する。より意識を精緻に感覚を敏感にしていく。
午後3時ころより、いよいよヴィパッサナー瞑想が始まった。
今までやっていたのは、サマタ瞑想といって、集中を高める瞑想である。
サマタ瞑想で十分に集中力を高めておかないと、ヴィパッサナー瞑想に入ったときに、十分観察できないということで、このようなステップになっている。マハーシ式では、いきなりヴィパッサナー瞑想から入るが、この辺がゴエンカ式との違いである。
グループ瞑想というのが日に3回、計3時間あるのだが、この時は、瞑想中一切体を動かさないように指示される。一時間動かないというのは、普段なら問題ないのだが、膝を痛め、すでに10分とあぐらをかけない状態なので、メチャクチャ辛い。おまけに昨日の瞑想以来、体調をすっかり悪くし、喉は炎症を起こすし、熱は出てくるし、最悪の状態である。
瞑想は、頭の上からつま先まで、順番に体の表面を感じていくというものである。これ自体は、気功の中に同じような気功法があるので、全然違和感はないのだが、体調が悪くて瞑想どころじゃない。かと言って休むわけにはいかない。
昼食は、ナスの炒め物に、野菜たっぷりの味噌汁。疲れた体と心に野菜はとてもありがたい。
ゴエンカ氏の話は、いよいよヴィパッサナー瞑想が始まったということで、ヴィパッサナー瞑想の基本的な説明があった。
ゴエンカ氏の言葉は覚えていないが、私流に説明すると、
人間には感覚(五感)がある。感覚が刺激を受けるとき、必ず反応や思考が生じる。
例えば嫌なものを見たり聞いたりしたときは、その瞬間に嫌悪感を感じる。
うれしいものを見たり聞いたりしたときは、その瞬間に渇愛が生まれる。
これらの反応や思考は、無意識に行われ、自分自身ではコントロールできない。
寝ているときに暑いと感じれば、人は無意識に布団を蹴飛ばす。
感覚が働き、嫌悪や渇愛の反応が生まれることが無意識に大量に行われている。
嫌悪も渇愛も、人を苦に導く。つまり嫌な感覚も好ましい感覚も、結局は苦につながる。しかし通常、人はこの反応をどうすることもできない。感覚から生じる反応はおろか、感覚自体にも気づいていない。
ヴィパッサナー瞑想の妙味は、この感覚に気づき、そこから反応を生じさせないことである。無意識に起こる反応が苦の原因であるなら、反応が無意識に起こらなければいいという単純な話である。
人から罵倒されても、非難されても、うまくいっても、失敗しても、それによって落ち込んだり、恨みを持ったり、有頂天になったり、傲慢になったりするのは、すべて自分の心が作り出しているものである。そしてそれは無意識の反応から来ているのだから、その反応をそのままにしておいて、心を何とかしようとするのは無理がある。
心を扱う方法は多々あるが、ヴィパッサナー瞑想は、最も根源的な反応そのものを変える仕組みである。
合宿五日目
瞑想は、頭の上からつま先までと、逆につま先から頭の上までと往復で行う。体調は相変わらず悪い。10日目まで持つか心配になる。3日目の鼻への意識集中は、神経を過剰に刺激したような気がする。疲れが溜まると、喉と扁桃腺が腫れるのは、子供の時から変わらない。足もメチャクチャ痛くて、全然集中できない。
体の各部を感じているが、体を感じても感覚からの反応が消えるようには思えない。無意識の感覚を自覚的に意識し、身体感覚を高めることがまずは必要なのだと勝手に思って、瞑想に取り組む。(これが過ちであることは、後から分かる)
昼食は、かぼちゃの煮物ヒマラヤ風味。筍としいたけがたっぷり中華風野菜炒め。はるさめ。アジアンテイストだ。野菜が多いのはとても助かる。
ゴエンカ氏の話は、ヴィパッサナーから展開して、いわゆる「十二縁起」の話。
「十二縁起」とは、苦の起こる十二の因と果を説いたもので、苦の根本原因は、「無明」となっている。
人のこの世についての説明に使われる場合と、過去世-現世-来世 と三世に渡る説明に使われることがあるが、今回は、過去世-現世-来世 について、因と果がどのように起こるのかという話であった。
過去世とか来世とかは、信じていてもいなくても、ヴィパッサナーの有効性には関係ないのだが、お釈迦さんの法はもともと因縁、縁起、輪廻などをもとに説かれているので、そう考える方が理解しやすいかもしれない。
瞑想には、キリスト教徒など、仏教以外の人も来るので、話について来れない人もいるかもしれない。輪廻は信じなくても、修行に影響はないと、説明はされていたが。
合宿六日目
やっと体調が戻ってきた。瞑想は、身体の小さな部分を感じることから、段々大きな部分を感じるように指導されていく。両腕や顔全体など、いろんなところを意識する。
しかし足は相変わらず痛い。いつもなら1時間座っているのはそんなに苦痛ではないのに、なぜこんなにも痛いのか?休憩時間に他の人を見ると、苦悩に満ちた人がたくさんいる。明らかに戦意を喪失している人もいる。「やってられねーぜ、こんなの。」という気持ちだろう。
しかしコースに参加する前に、3回も誓約させられている。「10日間、決して途中で止めることなく、コースを受講する。コースの間は指導者の指示には必ず従う。」これがコース参加の絶対条件なのだ。だから途中で逃げ出すことは出来ない。
昼食は、たぶん 炊き込みごはんと冷奴。唯一ホットできる時間だ。
ゴエンカ氏の話は、十二縁起の続きと、瞑想の注意点などがあった。
ヴィパッサナー瞑想の修行を続けるときに注意点が5つ。
1. 渇愛を起こさない
2. 嫌悪を起こさない
3. 睡魔に近づかない
4. イライラしない
5. ヴィパッサナー瞑想への疑い、指導者への疑いを持たない
いずれもすぐやってしまう過ちである。
たぶん瞑想中盤のこの頃、こういう人が多くなるのを見越しているのだろう。
1.渇愛を起こさない:
こういう瞑想をやっていると、すごい体験をしたいとか、もっとこんな感じになりたいとか、何かを得たいというような欲望を持ち始める。渇愛を無くすために瞑想をしているのに、返って渇愛を育ててしまう。どんな神秘的な体験をしても、これではヴィパッサナー瞑想に取り組む意味が無い。
2.嫌悪を起こさない:
何でうまく出来ないんだ? 俺には才能が無いのかな? 私にこの瞑想は無理なんだ。1時間動かないことすら我慢出来ないなんて、我慢のかけらも自分にはない。などなど、嫌悪のネタにも困らない。これでは嫌悪の反応を無くすどころか、逆に嫌悪の反応を作り出すことになる。
3.睡魔に近づかない:
睡魔というのは睡眠不足だから来るのではなく、嫌なこと、逃げ出したいことからの逃避である。メチャクチャ足が痛いのに、寝ちゃうことだってある。
4.イライラしない:
思い通りに修行が進まないと、段々イライラしてくる。瞑想とは逆方向だ。
5.ヴィパッサナー瞑想への疑い、指導者への疑いを持たない
本当にこんな瞑想で効果あるのか?と疑問を持ちながら修行しても、効果は得にくい。
少なくとも修行すると決めた期間は、強い信頼を基に取り組むべきである。
合宿七日目
身体全体を感じるような指示が多くなる。全体を感じ、全体では感じきれないところを、各部分ごとに詳細に感じる。全体と部分、ひたすらその繰り返しである。
痛みへの対処はやっと見えてきた。そもそも痛みというのは、純粋な感覚器官の反応だけではなく、そこから生じる様々な精神的反応や思考によって増幅されて感じるものである。「痛い。もう嫌だ。いつまで続くんだ。このまま我慢したら足がダメになるんじゃないのか。苦しい、死にそうだ。」なんてことを思っているから、その分痛みが増幅されるのだ。
1時間の瞑想中、目を開けてはいけないので、後何分我慢したらいいのかも分からない。これも精神的に辛い。あと10分我慢すればいいと分かれば我慢できるものも、残り5分なのか20分なのか分からないと耐えられなくなってしまう。
ヴィパッサナー瞑想では、感覚をありのままに、そのままに感じる。だから痛みをそのままに感じてみる。痛みの大きさ、強さ、痛みの質を正確に感じてみると、意外に大きくなく強くもないことが分かる。
痛みをありのままに観るようになってから、座るのが随分楽になった。実はこれは私のコーチングの中でもやっていることであり、頭ではよく分かっていることなのだが、なぜか昨日までは全然出来なかった。「やっと本調子だぜ」という感じか。
昼食は、野菜たっぷりのポトフ。スパイシーな感じで、疲れた心身に心地良く入る。
ゴエンカ氏の話(ほとんど忘れたが、いくつか覚えていることを書くと)
この瞑想法は難しい、何かを拝んだり、唱えたり、声を出したりすれば簡単だろう。しかしそれでは、波立つ水の表面に膜を張るようなものである。一見穏やかになったように見えるが、水の中の汚れは取れていない。
ヴィパッサナーを名乗る瞑想法はたくさんあるが、そのようなものと混同してはならない。
身体を観るヴィパッサナー瞑想は、身体の動きを見るのではない。感覚を観るのだ。ゆっくり歩く方法はブッダの教えに反する。普通に動いてその感覚を観る。(マハーシ式では、ゆっくり歩いて動きを見る瞑想が基本の一つだが)
本当の信仰とは、信仰する神の特性を、直観によって自分の所に招き入れるものである。謙譲・兄弟愛で有名な神を祭るのなら、その謙譲の精神で生きなければ意味が無い。その神が持つ特性を自ら持つこともなく、願い事をして、きいてもらったらお供えをするというのでは、信仰のかけらもない。
物質の究極的な姿は、瞬間に生じ瞬間に滅しているものである。最近は量子力学によってその事実が明らかにされてきているが、ブッダは瞑想によってそれを2500年前に知ったのだ。科学者はその事実を知っても悟りは得られない。相変わらず不安や苦悩の中にいる。体験のない知識からは悟りを得ることはできない。
―――――――――――――――――――――――
信仰する神の特性を自分の所に招き入れるというのは、密教的である。密教では、身口意の三密を加持することにより、仏と一体となる。仏の特性をこの身につけるのである。ゆえに「即身成仏」となる。原始仏教は意外と密教に似ていたりするのではないだろうか。
(注)合宿時は上記のように思ったが、その後、現在のテーラワーダ仏教と原始仏教は、かなり異なることを知った。したがって、ゴエンカ氏の合宿は、原始仏教よりもテーラワーダ仏教に近いので、上記表現はあまり正確ではない。
合宿八日目
今頃になって、根本的に瞑想法を勘違いしていることに気がついた。
ヴィパッサナー瞑想では、感覚が起きたとき(感受したとき)、そこから勝手に反応(渇愛、嫌悪)が起きないようになるのが基本である。
今までやっていたマハーシ式では、そのために、反応が起きる直前、あるいは反応が起きてしまったら、反応が起きていることを意識化し、反応が消えるようにする。
例えば、瞑想中に別のことを考え出したら、それに気づいた瞬間に「妄想、妄想、妄想」などと言語でもって意識化する。痛みを感じたら、「痛みがある」と意識化する。反応を無理に止めるのではなく、意識化することで自然に消えさっていくような感じである。感受から引き起こされる反応は、その後無意識に拡大するものなので、早い段階で気づくことにより、その拡大を防ぐことができる。
このようなやり方をやっていたので、てっきりゴエンカ式でも、何かもっと具体的なやり方があるものだとばかり思っていた。
また、アーナパーナサティの経典では、16の瞑想法が紹介されている。全身の感覚を感じる瞑想法は、その初期段階に出てくる。だから、全身の感覚をひたすら感じた後に、別の瞑想をやるものだと思っていた。
そうではなかった。この全身の感覚を感じることがゴエンカ式の全てなのだ。(少なくとも10日間のプログラムにおいては)
何があってもただ全身の感覚を感じ続ける。言語は使わない。マハーシ式が言語を使って意識化するのに対して、言葉を入れずにただ感覚を感じる世界、それがゴエンカ式である。
ゴエンカ氏の話
よく覚えていないが、蓄積されたサンカーラ(渇愛、嫌悪)を消滅し、心を浄化する話をしていたと思う。
感覚が働くとき、新たなサンカーラ(渇愛、嫌悪)を生みださなければ、新たな苦を生み出さないだけでなく、過去に蓄積された渇愛や嫌悪が呼び起こされ、消えていく。そのたびに心は浄化されていく。
なぜ感覚に集中するのか?感覚は身体と心の両方につながっている。心の深い部分で心は感覚とつながっている。だから感覚を観る。
―――――――――
アーナーパーナー瞑想の経典では、身体、感覚、心、無常の4つを観察し、そのために16の瞑想法が紹介されている。今回は感覚を観ることに特化している印象を受けたが、ゴエンカ氏の話の中に身体や心を観る話も少し出てきたので、全く無視しているわけではなさそうである。先に進めば何かあるのかもしれないが、今回のコースからは理解できなかった。
合宿九日目
ヴィパッサナー瞑想は今日で終了する。明日は違うプログラムを行う。「聖なる沈黙」も今日で終わり。今日で最後のせいか、みんなの意識、真剣味もちょっと違う気がする。場の雰囲気が非常にいい。
昨日から、身体の表面だけでなく、身体の内部にまで渡って瞑想するようになる。私のやっていた気功ではもともと身体の内部を観る方が中心だったので、この方がやりやすい。
朝から晩まで、痛みを感じながら、ただ身体を感じる。感覚を感じることが全てだと昨日気づいたので、その意識で取り組む。痛みなどの感覚は、嫌悪の反応を起こさないように気をつけ、過去に蓄積された嫌悪が消え去るようにする。
合宿後半のゴエンカ氏の話は、瞑想に対する注意点が多くなってきた。瞑想によって特別な体験を得ようとしないこと、これを何度も言われていた。
実際、瞑想をやっていると身体が素粒子で出来ていて、瞬間に生滅を繰り返していることを見る人が多い。しかしそれが見えたからといって、悟りを得るわけではない。見えただけなら、量子力学者が、知識で知っているのと大して変わらない。
ヴィパッサナー瞑想の目的はそのようなところにはない。最初から一貫して流れるメッセージ、それは「アニッチャ・アニッチャ・アニッチャ(無常・無常・無常)」。ここが分からなければ、神秘体験に意味はない。
結局のところ、ゴエンカ式のヴィパッサナー瞑想とは、ありのままに、あるがままに感じるということに尽きる。何も足さない、何も引かない、ただそのままに感じる。そのとき、心は浄化される。その感覚にひたすら浸った最終日であった。
やっている内容は過去にもやったことがあるものが多かったが、ここまで徹底して取り組んだのは始めてである。また、同じように全身の感覚を感じても、気功として行うことと、ダンマ(法:ダルマ)をベースにして、新たなサンカーラ(渇愛、嫌悪)を生み出さないためにやるのとでは、全然違うものであった。
合宿十日目
最終日は、メッタの瞑想を行う。慈悲の瞑想のことで、テーラワーダ仏教では、普通に行われているものである。自分や周りの人、生きとし生けるものに対する慈しみの心は、仏法の基本である。
テーラワーダ仏教協会などで使われているものと、言葉はだいぶ違ったが、心は同じであろう。自分自身も、他の人々も、生きとし生けるものも、皆、幸せであることを願い瞑想する。
ヴィパッサナー瞑想が、自分自身にのみ意識を集中しているのに対して、メッタの瞑想は、自分自身と外の世界に対して瞑想する。
合宿生活というのは世間と隔離されたかなり特殊な世界なので、そのまま日常に戻っていきなり生活すると、多々問題を発生させる危険がある。最終日に「聖なる沈黙」を解き、メッタの瞑想を行うのは、世間に戻りやすくする配慮でもある。
「聖なる沈黙」が解かれると、いきなり自由に話し始める人や、何からどれくらい話したらいいのか、探りながら話す人など様々であるが、それぞれどんな感じだったのか、情報交換が始まる。
私の感じるところ
かなり良かった人、ぜひまた来たい人 2割
二度と来たくない、全然分からなかった人 2割
まー、貴重な経験は出来たかなという人 6割
という感じかな。
すべての人がこれで満足するなんてことはあり得ない。心理タイプ論的に考えても、ヴィパッサナー瞑想にはまりやすい人とはまり難い人がいると思われる。僕がヴィパッサナーと密教瞑想の両方をやっているのは、そういう理由でもある。
この日は指導者への最後の質問の機会だったので、マハシー式とゴエンカ式との違いを念のため確認する。
これは、ひとりで修行するときに、誤って混同しないためである。それぞれの瞑想法には、それぞれの思想や体系がある。それを十分に理解しないで、安易に方式を混ぜることは、往々にして道を誤る。自分の理解していることを一通り話したが、問題はなかったようだ。
最終日
朝の瞑想、講話、朝食を済まし、みんなで道場を掃除して、解散。
高野山の宿坊に泊まりたいというアメリカ人のカップル(コースの手伝いに来てくれていた人)がいたので、一緒に車で高野山に向かう。
朝から雨が降ったり止んだり、天気予報もずっと見ていないので、どんな天気になるのか分からないまま出発。
対向車とすれ違えないような狭い山道が続くが、雨や霧で前はよく見えず、対向車もやってくる。車を降りようとした途端に豪雨になったり、夕方6時に高野山につく予定でいたら、急に5時半に着いて欲しいと言われたり。
途中、温泉に向かったが、全然見つからず、雨の中探し回っていると、時間は刻々と過ぎていく。そしてタイヤはパンク。
中々予定通りに進まない中で感じたことは、これこそが修行であること。この瞬間瞬間起きる感覚に対して、サンカーラ(渇愛・嫌悪)を起こさないことこそ、ヴィパッサナーの道である。だから、瞑想中よりよっぽど修行になるなあ、などと苦笑いしながら運転していた。
もちろん、この時、新たなサンカーラ(渇愛・嫌悪)を生み出さないような心を維持することに、10日間の瞑想が役立ったことは言うまでもない。
昼食: 龍神村の「もんぺとくわ」というパン屋さん。自家栽培のズッキーニをトッピングしたピザトーストを出してくれた。日本は美味しいズッキーニを食べられるところが少ないと言って、アメリカ人の二人がすごく喜んでいた。高野山にもこういう店があるといいんだが。
温泉:龍神村の「丹生ヤマセミ温泉館」。時間が無かったので入った時間はとても短かったが、露天風呂もあり、とても良かった。ちなみに龍神温泉は、「日本三美人湯」と言われているらしい。
http://www.wecom.jp/ryujin/contents/spa/yamasemi.html
9時半ころに那智を出発し、高野山についたのは6時半くらいであった。
時間はかかったが、途中温泉にも入れたし、良い旅であった。
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