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大乗仏教の起源

 大乗仏教の起源は、大乗仏教が釈尊の直説でないことが判明して以来、多くの人によって諸説が立てられている。明治時代になり仏教が学問的に研究されるようになると、大乗仏教が釈尊の直説でないことは自明のこととなり、「大衆部起源説」が多くの支持を得るようになる。「大衆部起源説」を批判する形で、平川彰は、「仏塔信仰を中心とする在家仏教教団が部派仏教とは別に存在し、菩薩衆として仏塔やアランニャを住居としていた。」とする説を打ち出した。

 平川説が発表されて以来、次々と批判的に新たな説が生み出されている。まずは、主要な説の概略を述べてみたい。

(1) 佐々木閑は平川説を批判し、大乗仏教は仏教教団内部から生まれたものと主張する。大乗と部派は、同一の原因から生じた二方向の現象(同一現象)であるとし、また、大乗の起源に複数のグループがある可能性を指摘した。

(2) 下田正弘は、大衆化、世俗化する伝統仏教に対し、ブッダ本来の理念と実践に戻ろうとする復古主義運動を大乗の起源とみる。

(3) 杉本卓洲は、部派教団が仏塔信仰と密接な関係にあり、むしろ大乗教団の方が、古くは仏塔と疎遠であったと主張する。

(4) 蜜波羅鳳洲は、大乗と非大乗の沙門が教団内に混在していることを見出し、一切法空を奉ずる菩薩衆の沙門が起こした、部派仏教の浄化運動を大乗仏教の起源とみる。

(5) ショペンは、中国における仏教の状況を無検討にインドに当てはめていることを批判する。初期大乗の経典崇拝に着目し「教典=塔=仏」の図式を見出した。また、初期大乗に苦行主義が見られることから、辺境に残された戦闘集団と森林に生活する孤立した小集団の2タイプが存在するとした。これは、5世紀頃まで仏教遺跡に大乗教団の名が無いことの理由となっている。

(6) ハリソンは当時の在家菩薩を、極めて禁欲的で、サンガと密接な関係を持つとみる。また、宗教教団が大衆の支援を得る活動を広める中で、仏陀を賛美し、呪術が重視されたとする。

(7) シルクは、大乗は地理的にインド中に分布し、他方、それが様々な部派と結び付いているとする。大乗は、部派の数ほど、経典の数ほどあり得ると主張する。私は、大乗仏教の思想の多様性から、シルクの説には妥当性があると考える。

(8) ナッティアは、大乗研究が法華経や維摩経など特定の経典研究に片寄っていることを批判し、サンスクリット原典の有無や経典の知名度、西洋的価値観などを排して研究すべきだと言う。ナッティアは『ウグラの問い』の研究などにより、初期菩薩がごく限られた人を対象とした極めて厳しい道であることを見出した。

(9) 李は、ペシャワール渓谷の僧院からの出土品を調べ、大乗的な作品が奉納されているにも関わらず、碑文は飲光部の所有を示していることを見出した。このことから、当時の大乗仏教徒が部派教団内で生活していたと推察される。

(10) 村上真完は、仏教を「開放系の開かれた思考法」であるとし、初期仏教経典の制作が終わる頃から、新しい理想と理念を語る大乗経典が作られ始めたとする。大乗仏教運動は、大乗経典の創作と唱道に始まり、やがて教学構築へと進む広く大きな宗教的営為であったとみる。

 以上のような研究成果を踏まえ、私は大乗仏教の起源を次のように考える。
 大乗仏教は、当時の部派仏教に批判的な者たちが起こした、革新的・復古的運動であり、各部派教団内において別々に起こったものである。インド各地の反部派仏教徒は、互いに連携し合いながら、やがて大乗仏教というひとつの理念を生み出すに至る。その時のキーワードは「菩薩」である。なぜなら『ウグラの問い』に見られるように、「菩薩」は厳しい修行の道であり、一面ではブッダの真の理念を実現する復古的な思想であると同時に、他方では在家の支援者を獲得し、勢力を拡大することに寄与する革新的な思想でもあるからである。

 このことは大乗仏教が部派仏教内で存在し続けられた理由でもあると考える。なぜなら、大衆の支援を獲得し教団勢力を拡大するという活動において、部派と大乗は共闘する関係になるからである。大乗仏教は、20以上の部派が乱立し、またヒンズー教などの外敵との戦いも強いられるという特殊な状況の中で、革新と復古に燃える仏教徒達が、部派との対立と共闘を併存しながら発展してきたダイナミックな運動ではないだろうか。     【 橋本文隆 】

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