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チベット密教の特色

 このレポートでは、チベット密教を歴史、教理、実践の観点から論じ、その特色を明らかにすることを目的とする。

 最初にチベットに仏教を広めたのは、7世紀前半に活躍したソンツェン・ガムポ王と言われる。
8世紀になると、ティソン・デツェン王が仏教を国教化し、仏教は大いに発展する。
 廃仏政策により一時仏教は衰退するが、10世紀後半から11世紀にかけて、チベットの仏教は新訳の時代として復興する。
 インドのヴィクラマシーラ大学の学長であったアティーシャが招聘され、顕教を修学した上でタントラ密教を学ぶことを説いた。また、翻訳官リンチェンサンポは、『秘密集会タントラ』や『初会金剛頂経』など多くの密教経典を翻訳する。

 1203年、ヴィクラマシーラ寺院が破壊され、実質的にインドでは仏教が消滅する。
インドに存在した部派や大乗、密教はチベットに伝えられ、その法灯を守ることとなる。
当時アジアではモンゴル帝国が勢力を拡大していたが、クン一族が実権を握るサキャ派はモンゴルと手を結び、モンゴルにチベット密教を広めるとともに、チベットにおける宗教的・政治的権力を手中にした。

 1409年、ツォンカパがガンデン僧院を建立し、ゲルグ派の始まりとなる。ツォンカパは、顕教の修行の上に無上瑜伽タントラを位置づけ、戒律と性的ヨーガ修法を体系的に構成した。
 またゲルグ派は、活仏制度に基づくダライ・ラマ制を成功させ、宗教界のみならず政治的にも最高権力者となる。

 その後鎖国政策を取ったチベットは、19世紀後半になると、英国・ロシアなどの圧力により開国せざるをえなくなる。中華人民共和国が成立すると中国によるチベット侵攻が始まり、1959年、ダライラマ14世は、インドのダラムサラに亡命する。

 ダライラマ14世は亡命後、世界各国を回り、非暴力による解決を訴えている。皮肉にも、中国によるチベット侵攻は、ダライラマをチベットの指導者から世界的宗教者へと押し上げた。1989年ダライラマ14世は、ノーベル平和賞を受賞する。しかしチベットの抱える問題が解決したわけではない。

次に教理と実践の観点からチベット密教を考察する。

 チベットにはインドから部派・大乗の仏教と密教が流入する。日本が中国経典をベースに仏教経典を導入したのに対して、チベットではインドの経典を直接導入し、翻訳を進めている。翻訳された経典は5,000近くあると言われ、その半数以上が密教経典となっている。チベット人はこの膨大な経典群を理解するために、インドでの分類法を参考にしながら経典群を分類・整理していくこととなる。

 密教経典はタントラと呼ばれ、所作タントラ、行タントラ、瑜伽タントラ、無上瑜伽タントラの4つに分類される。インド後期密教に相当する無上瑜伽タントラは、さらに、方便父タントラ、般若母タントラ、双入不二タントラの3つに分類され、双入不二タントラを最高とするプトンや、方便父タントラを最高とするツォンカパの説などがある。

 チベット仏教には多くの派があるが、特に、ニンマ派、サキャ派、カギュ派、ゲルグ派の四派が有名である。
ニンマ派は、パドマサンバヴァの伝えた古派の密教が、チベット土着の宗教や風習と結びつきながら発展してきた派である。

サキャ派は、クン一族が実権を握る宗派であり、モンゴルと結びつくことで、一時、宗教的政治的権力を手中にした。

カギュ派は、インドの密教行者ティローパを開祖とし、インド後期密教に基づくヨーガ修行を中心とする派である。著名な密教行者であり詩人でもあるミラレーパは、カギュ派の僧である。

ゲルグ派の創始者であるツォンカパは、『菩提道次第大論』によって顕教の立場を明確にし、『秘密道次第大論』によって密教の立場を明らかにしている。
『秘密道次第大論』では、所作・行・瑜伽タントラと無上瑜伽タントラの解説があり、生起次第と究竟次第という成就法が説かれている。
このようにチベット密教は、インドの伝統を強く引き継ぎながらもチベット独自の世界を構築し、壮大で緻密な体系を確立している。   
 【 橋本 文隆 】

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