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如実智自心と阿字観

 如実智自心は、あるがままに自分の心を知るということであり、真言密教の基本ともいえる思想である。
自分の心をあるがままに知るとき、心は本来清浄であることに気づき、悟りへと至ることが可能となる。

 大日経三句の法門に「菩提心を因とし、大悲を根とし、方便を究竟とす」とあるように、菩提心は仏の智慧を得る基本となる心であり、それは正に自心をうそ偽り無く知ることによって得ることができるものである。
 「煩悩即菩提」と考える密教では、煩悩を含めて自己の心を知ることが求められているのであり、煩悩があるがゆえに即菩提へと至ることができる。煩悩にすら気づかない心では、到底菩提に至ることは出来ないであろう。

 しかしながら自心をあるがままに知るということは、通常においては成されないことである。西洋心理学では、心(意識)を顕在意識と潜在意識(無意識)という風に分類し、無意識を含めて心を理解していくことを「自己理解」と呼んで重要視している。しかし様々な方法で行われる自己理解は、心の全てを知るには程遠いものである。
 私自身は「ユングの心理タイプ論」が専門であり、心理テストやセミナーを通じて「自己理解」の支援を行ってきた。
それはとても有益なものであったが、理解できるのは顕在意識と深層心理のごく浅い部分だけである。

 自己理解は自己実現の基本となるものであり、キャリアカウンセリング等では自己をよく理解して充実した人生(自己の実現)に向かうという構図が一般的である。
 この「自己理解と自己実現」の関係は、「如実智自心と悟り」との関係に似ていると思われる。
しかしながら「如実智自心」に求められるレベルは、一般的な「自己理解」に比べてとてつもなく深い。
それにも関わらず、真言密教は「即身成仏」だという。いかにして如実智自心を実現し即身成仏するのか?
この疑問に答える鍵が「阿字観」にはあると思われる。

 そもそも密教においては、三密加持により仏と一体となることが、「即身成仏」の道だとされている。
そのための修行は長い歴史の中でシステム化され、「五相成身観」など様々な行法が実践されている。
しかしながらこれらの行法は修行僧にのみ伝授されるものであり、在家の人々は行を受けることができない。

 しかし、弘法大師空海の心に立ち返れば、密教は修行僧だけのものではなく、広く衆生を救うもののはずである。四重禁戒においても、一切の教えを相手の機根に応じて惜しみなく与えることや、衆生の救済に努力することが定められている。

 このような状況を踏まえれば、易行ともいえる「阿字観」が一般に公開され、多くの人に「如実智自心」への道を示したことは、大きな意味があると考えられる。なぜなら、「阿字観」はヨーガ・瞑想法として優れているのみならず、真言密教の根本教理を確実に受け継いでいるからである。

 自己の本源、宇宙の本源である「ア」の一字に、自心の本不生を見出し、「ア」すなわち大日如来の命を生きることを可能とするのが「阿字観」である。「ア」の意義を十分に理解し、「阿息観、月輪観、阿字観」を、それぞれ機根に応じて行えば、あるがままに自心を知り、阿字本不生の世界を生きることとなる。
「阿字観」を通じた「如実智自心」の広がりは、これからますます重要になっていくことであろう。   【 橋本文隆 】

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