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空海教学における因果論

 空海は、空海以前の一般仏教学における因果論をふまえて、空海独自の因果論を展開している。「断悪修善」や「善因善果」などの一般仏教学的因果論や、初期仏教の基本教理ともいえる十二因縁を、空海は、『秘蔵宝鑰』の第五抜業因種住心の中に位置づけ、因果論・因縁論を展開している。

 しかし空海の因果論はそこに留まらず、独自の展開を見せる。その思想の基盤となるのは『釈摩訶衍論』と思われる。『釈摩訶衍論』では、果分を「不二摩訶衍法」といい、その不二の境地を「性徳円満海」と名づける。果分とは、一切の差別・機根を離れた仏自性秘密の境界であり、機根・教説を離れた境地である。因縁を超えた境地であり、因縁自体が説かれない。一方、「修行種因海」と名づける因分の立場では、機根があり教説がある。因分とは、仏自性果分の世界を因人に説く教えであり、衆生種々の機根に答えて因縁に随って説かれる。

 空海はこの果分の境地を密教と名づけ、因分の立場を顕教と名づける。『二教論』巻上では、「所謂因分可説とは、顕教の分斉。果性不可説とは、即ち是れ密蔵の本分なり」と述べている。このように空海は、『釈摩訶衍論』の「因・果」を、「顕・密」にあてている。

 因は縁によって果に至る。この縁を空海は、「因即縁」とらえ、『吽字義』の中で独自の因縁論を展開している。『吽字義』では、言葉の表面上の意味を字相、秘奥的な意味を字義とする。字相は訶字門、阿字門、汗字門、摩字門の四つに区分され、訶字門を、因・因縁の義をあらわす標識であるとする。一切の法は、因にはその因があり、その因には因があるというように、限りなく転々していくが、最後に因として依るべき何らの固定したものはない。したがって訶字門では、一切もろもろの法を因不可得とし、諸法の因縁を不可得不生であると述べている。このように因の根本に際限なく不可得であることを知ることが如実知自心であるが、凡夫は因不可得であることを観ずることができないがゆえに、生死にとらわれ、因縁ある世界に住み続けるという。

 一方、訶字門によっていわんとするところは、因果の対立を超越した境地である。「因即法界、縁即法界、因縁所生の法即法界」であり、因は何らかの果に対する因ではない。あらゆる対立を超越した法界において、一切の法は心の現れであり、その心がまさに法界と合一するのである。
  空海の「因と果の関係」についての考えは、十住心体系の中から知ることができる。空海は、求道心が順次向上発展していく過程において因果関係を説いている。例えば「第九住心」は「第八住心」を因とした果であると同時に、「第十住心」から見れば因となるというように、「第一住心」から「第十住心」への展開を弁証法的な運動ととらえ因果論を展開している。

 ここで重要なのは、「第九住心」の扱いである。「第一住心」から「第九住心」を顕教とし、「第十住心」を密教とする十住心論では、「第九住心」は因位の世界の究極の果であると同時に、果位の世界の因でもある。果海である「第十住心」に没入すれば、そこは因果の境界を離れた世界となる。『二教論』には、因位を成就したものは、勝進して果海の中に没入するとある。没入する因位の過程は説くことができるが、没入すればもはや説くことができない。「第九住心」と「第十住心」の関係は、このように理解することができる。

 『吽字義』には、「仏眼をもって観察すると、仏も衆生もともに生死を解脱する床に住している」とある。また『即身成仏義』では、「真言の果は、悉く因果を離れたり」と述べ、因すらも空であり、果海が因果を超越した世界であるとする。
 つまり「第九住心」までの弁証法的な因果論をふまえて、究極の世界として、弁証法的運動を超越した、因果の存在しない世界を設定している。この境界を越えた世界こそ密教の世界である。空海はその超越を、「心続生」の問題ととらえている。『大日経』には、「心続生の相は、諸仏の大秘密なり。外道は識ること能わず」と説かれている。弁証法的因果とその超越は、因果の有る世界と無い世界の不連続ではなく、諸仏の大秘密たる「心続生」として実現されるのである。 
 【 橋本 文隆 】

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