ブログ仏教の歴史と背景

仏様は、本当にいるのか? (ブッダ と 空海)

ブッダ・空海の思想に入る前に、予備知識として
今の日本人がよく持つ、仏教への疑問や勘違いを扱います。

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よくある仏教の疑問 6
 仏様は、本当にいるのか? (ブッダ と 空海)

 宗教の嫌いな人、信仰が信じられない人などから、時々、神さんや
仏さんというのは本当にいるのか?
どこにいるのだ?いるなら連れてこい、などと言われることがあります。
神さまは置いておいて、ここでは仏さまについて語ります。

仏とは、仏陀の最初の文字を取ったものです。意味は仏陀と同じです。
仏陀は、ブッダ(Buddha)という音に漢字を当てはめたものです。
ブッダは、目覚めた人という意味で、覚りを得た人のことです。
その意味では、覚りを得た人は、誰でもブッダと呼ぶことができます。

 現在、上座部仏教でブッダといえば、約2,500年前にインドに実在した、
ブッダ(お釈迦さん)のことを意味します。どこにいるのかと問われれば、
2,500年前に存在したとしか言えません。
 ブッダ以外の覚りを得た人は阿羅漢(あらかん)と呼ばれます。

 大乗仏教になると、観音菩薩、弥勒菩薩、文殊菩薩、薬師如来、
阿弥陀如来など、たくさんの仏が出現します。

 空海の始めた密教では、一番根本的な仏を「大日如来」とします。
「大日如来」とは、仏教の法(真理)を、仏という形にして現したものです。
ですから、法(真理)といっても、「大日如来」といっても、中身は一緒なの
ですが、法(真理)だと形がなく分かりにくいのに対し、「大日如来」だと
形があるので、扱いやすくなります。

 では、「大日如来」はどこにいるのかと言えば、空海は「心の中」だと
言います。
法(真理)は心にあるのであって、どこか外にあるのではないのです。
人間の外に神を立てるのではなく、あくまで自分の心を知るというのが
仏教なのです。

僧侶は金儲けをしていいのか?

ブッダ・空海の思想に入る前に、予備知識として
今の日本人がよく持つ、仏教への疑問や勘違いを扱います。

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よくある仏教の疑問 5
 僧侶は金儲けをしていいのか?

 本来出家者は、ごく一部の例外を除いて、自分の所有物はありません。
あらゆる執着から離れることが覚りへの道なので、「所有」という執着を
生み出すことはしないわけです。
当然、金儲けもしませんし、金を貯めることもしません。

 ブッダは、出家者が働くことは禁止しました。労働をしてお金をもらうのは、
欲と執着を生み出します。もちろん在家者が、自分の仕事をしっかりやって
金を得ることに何の問題もありません。

 出家者は金を稼げないので、この世での命をつなぐのは、ただ布施に
よってのみです。何かの対価として布施をもらってはいけません。
布施とは見返りを求めない行為であり、何かの対価ではないからです。

 ブッダは、医療の心得のある僧侶に布施が集まることを、戒めています。
身体が悪くなったら直して欲しいという思いから出た金品をもらうのでは、
出家者ではなく医者の仕事と変わらなくなるからです。

 このようなブッダの姿勢は、中国、日本で変化していきます。
中国では、「働かざるもの食うべからず」などと言われました。
修行者に対する布施が充分に集まらない地域では、
布施以外の手段がなければ、僧団の維持や修行の継続ができません。

 現代でも、タイ、スリランカ、ミャンマーなど上座部仏教国では、在家者が
喜んで布施をしますが、日本では、ほとんどの人が布施をしません。
欧米人はキリスト教的感覚でしょうが、寄付という行為は一般的です。

世界に40以上あるヴィパッサナーセンターでは、10日間の瞑想合宿を
食事・宿泊場所をつけて、無料で行なっています。
運営は、すべて寄付や布施によってまかなわれていますが、
世界でも有数の裕福な国である日本のセンターの運営は、
財政的にかなり厳しいといいます。

托鉢など布施の機会を提供することは、本来は僧侶の大切な役割です。
自身が布施するとともに、布施の機会を提供することが必要です。
しかし日本では、僧侶が托鉢をしていると嫌がられたりします。※1

このような環境の違いを考慮すると、単純に僧侶が金儲けをしていいとか
悪いとかは言えないと思います。

 個人的には、普段ほとんど布施をしないで、葬儀代や戒名代として
高額のお金を払うよりは、普段から法話などを通じて仏教の教えに親しみ、
それを人生の力とし、継続的に布施をしていくというスタイルを望みます。

 そうなれば、心ある僧侶は戒名代などで生活費を得るのではなく、
法を広め、人々の生きる力となることで、この世に生かされていくことに
なると思います。


※1 四国遍路ではお接待という無料の行為が、頻繁に見られます。
四国遍路に参加された多くの方が、何の見返りも求めないお接待を受け、
その素晴らしさを感じておられます。

このことから、布施や寄付などの無償の行為が少ないことは、
日本人の問題というより、環境の影響が大きいと考えられます。

適切な環境さえ整えば、日本人も、自ら布施や寄付を行なうという心を
持っていると思われます。

僧侶の仕事は葬式なのか? 2

ブッダ・空海の思想に入る前に、予備知識として
今の日本人がよく持つ、仏教への疑問や勘違いを扱います。

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よくある仏教の疑問 4
 僧侶の仕事は葬式なのか? 2

仏教の戒律の中に、僧侶は在家者の葬儀に関与してはいけない
というものがあります。
ブッダや空海の記録の中にも、僧侶の葬儀に関わったものは少しだけ
見受けられますが、出家していない人への葬儀には関わっていません。

そこで現在の日本仏教式葬儀では、死者をまず出家させ、
戒を授けて(授戒)、戒名を与えます。
これにより、死者は在家者ではなくなるので、戒律を破ることなく
僧侶は葬儀を行なうことができます。

おそらく当初は、在家者の葬儀を行なうために裏技的に考え出された
ものだと思いますが、現在では仏門に入れて戒名を与えることが
普通になっています。

多くの宗派では、葬儀の作法を引導作法といいます。
引導とは、衆生を菩提(悟りの世界)に導くことです。
僧侶に対しては、引導作法は行いません。

僧侶は、すでに戒を授かり僧名を持っています。
真言宗の場合、伝法灌頂を授かり阿闍梨(あじゃり)となります。
引導作法では、それと同様のことを死者に対して行なうわけです。

昨今、高額の戒名代などに対して批判や戒名不要論などもあるようですが
元々は、戒律違反を回避しながらも、在家の葬儀を行なうという、
妙案だったのかもしれません。

--- 次回は 「 僧侶は金儲けをしていいのか? 」 ---

僧侶の仕事は葬式なのか? 1

ブッダ・空海の思想に入る前に、予備知識として
今の日本人がよく持つ、仏教への疑問や勘違いを扱います。

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よくある仏教の疑問 4
 僧侶の仕事は葬式なのか? 1

 今では、僧侶といえば葬式でしょう。人が亡くなるという大きな出来事を
引き受けてきたのは、僧侶だったのです。
 しかし葬式という儀式は、仏教の教義に基づくというより、
文化・風習の側面が強いと思われます。

 そもそもブッダは自分が亡くなるとき、僧侶には葬儀をしないように
言い残します。葬儀などは在家者に任せておけばよいのであって、
出家者には修行に専念することを望んだわけです。

 インドでは仏教が滅んでしまいましたが、仏教僧は、葬儀など風習風俗に
関わることをあまりしなかったので、一般大衆は風習風俗に密着した
ヒンズー教の方に親しんだ、という説もあります。

仏教は元々、覚りを得るための修行の道として始まったのですが、大衆に
浸透していく中で、葬儀などの儀礼・儀式は、避けて通れなかったようです。

 葬儀は単に儀礼というだけではなく、死という人々の大きな悲しみを癒す
働きがあります。それは僧侶の大きな役割であり、ある意味、僧侶が一手に
引き受けてきたと言えるでしょう。

形だけの儀礼・儀式だと、本来の仏教とあまり関係がないかもしれませんが、
人々を癒し、道に人々を導くならば、葬式は仏教的意味があると思います。
戒名(法名)というのは、仏門に入った人に授けるもので、僧侶であれば
僧名にあたります。

個人的には、死んでから仏門に入るのなら、生きている時に入れよ、と
思うのですが、仏門などと考えず、習慣として行なっているのが大半
なのでしょう。

 ちなみにチベット仏教では、死ぬと四十九日以内にどこかに生まれ変わる
と考え、僧侶には、良き処に生まれ変わるように支援する役割があります。
 初期仏教には四十九日で転生という考えはありません。

日本は四十九日という思想は入ってきていますが、四十九日で転生すると
明確に考えているわけではないようです。

 日本人は、本来輪廻転生という考えを持っていませんでした。
仏教導入後も、実はその思想をほとんど受け入れていません。
だから日本仏教は、一方で仏教教義として輪廻を語りつつ、
お彼岸などの習俗を、輪廻思想とは関係なく行なっています。

 このような柔軟な対応がなければ、インドで仏教が滅んだように、
日本でも仏教は滅んだかもしれません。

--- 次回は 「 僧侶の仕事は葬式なのか? 2 」 ---

僧侶は結婚していいのか?

ブッダ・空海の思想に入る前に、予備知識として
今の日本人がよく持つ、仏教への疑問や勘違いを扱います。

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よくある仏教の疑問 3
 僧侶は結婚していいのか?

 現代の日本のお寺は、家族がいて成り立っています。妻や子供が
いるのは普通です。お寺というのは、自分のものではなく宗派のもの
なので、跡取りがいないとお寺を出て行かなければいけません。

 このように僧侶が家庭を持つのは、他にはない日本だけの特徴です。
上座部でも大乗仏教でもチベット密教でも、僧侶は家庭を持ちません。
本来出家者は、異性には一切触れてはいけないのです。

 出家というのが、家を出ると書くように、あらゆる執着の種から離れようと
するのが、出家者の元々の姿です。家庭があると家庭を守る責任があり、
妻や夫、子供に対する愛着があり、教育費や生活費などを稼ぐ必要もあり、
と一般的な在家者と同じような環境になってしまいます。

その環境でブッダの覚りを得ることは、極めて困難です。
(不可能と断言はできませんが)

しかし、今の日本の現状では、家族の協力がなければ、お寺を維持
することも難しいでしょう。
(お寺の維持・管理には、かなり手間がかかります。)

 日本は、独自の仏教をつくるとともに、世界に類のない独自の僧侶
スタイルも創りあげたと言えるでしょう。
お寺と檀家さんの関係を見ていると、これはこれで日本の風習には
合っているようには思えます。

 昔、始めて公に妻帯した親鸞聖人は、自分のことを出家者ではないと
しました。
といって在家者とも言えないので、非僧非俗(僧でもなく俗でもない)
という姿勢を貫きました。(僧籍を剥奪されたので、そうなったのですが)

個人的には、非僧非俗という親鸞の姿勢は好きです。
出家という言葉を使うなら、初期・上座部仏教の出家と日本仏教の出家は
違う意味合いで使われていると考えた方が、分かりやすいと思います。

それをどう評価するかは、個人の価値判断の問題でしょう。

--- 次回は 「 僧侶の仕事は葬式なのか? 」 ---

ブッダ・空海の瞑想講座を開催します。
5月17日(土) 大阪 難波市民学習センター
講義とワークを行います。詳細は下記ページをご覧ください。
 http://www.performanceship.com/meisou0517.htm

僧侶は酒を飲んではいけないのか? 2

ブッダ・空海の思想に入る前に、予備知識として
今の日本人がよく持つ、仏教への疑問や勘違いを扱います。

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よくある仏教の疑問 2
 僧侶は酒を飲んではいけないのか? 2

仏教が多様化するなかで、戒律の解釈が変わったり、新たな戒律が
できてくるようになります。
五戒に関しては「殺生・盗み・邪婬・妄語」の4つは、それ自体が罪であるが、
飲酒は,行為自体は罪ではなく、酒を飲んだ結果、悪事を働くことが悪い
のだという考えが出てきます。

 「殺生」と「飲酒」を同列の戒として扱うのは不適切だという考え方は、
一般常識的に考えれば、それなりに妥当性があると思われます。
(宗教は一般常識で測れないことが多いですが)

 また、仏教が北方の寒い地域に広がるなかで、インドの伝統的戒律では、
都合の悪いことも、いろいろ発生するようになります。
 インドではボロキレ1枚で生活できますが、寒い地域では、凍え死にます。
寒冷地では、暖をとるために、酒が欠かせないところもあります。
酒が命をつなぐ場合もあるのです。

 「それでも、仏教徒なら酒を飲むな」という主義もあるでしょうし、
「悪事を働かなければ、酒を飲んでも構わない」と考える人もでてきます。

 日本の宗祖たちは、だいたい酒に対して寛容です。
その理由を正確に調べたことはないのですが、
想像するに次のような理由ではないかと思います。

1.日本では、昔から神事に酒を使い、酒を神聖なものと考えている。
2.米は日本の精神文化の象徴であり、米から造られる酒も、
  米と同様に考えられている。
3.日本の修行は、高野山など山岳修行が中心であり、寒冷のため、
  酒はよく飲まれた。

肉・魚と同じで、加行中は禁酒です。

ちなみに、酒のことを僧侶の隠語で”般若湯”といいます。
般若とは智慧のことだから、お酒は、”智慧のお湯”だそうです。
個人的には、こういう隠語は、あまり好きではありませんが。

なお、タバコに関しては、律がないので、上座部も大乗も自由です。
律の制定時にタバコは無かったので、規定がありません。
規定のないものは、原則自由です。
あくまで、本人の意識と自覚の問題です。

--- 次回は 「 僧侶は結婚していいのか? 」 ---

ブッダ・空海の瞑想講座を開催します。
5月17日(土) 大阪 難波市民学習センター
講義とワークを行います。詳細は下記ページをご覧ください。
 http://www.performanceship.com/meisou0517.htm

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僧侶は酒を飲んではいけないのか? 1

ブッダ・空海の思想に入る前に、予備知識として
今の日本人がよく持つ、仏教への疑問や勘違いを扱います。

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よくある仏教の疑問 2
僧侶は酒を飲んではいけないのか? 1

 仏教には、不飲酒(ふおんじゅ)戒という、決まりがあり、仏教徒は
酒を飲まないのが基本です。

 戒律という言葉がありますが、戒と律は本来は別のものです。
戒は、仏教修行を志す者が、自発的に守ろうと目指す決まりのことです。
戒は、出家者、在家者を問わず、仏教を志すものならば、出来る限り
守ろうとするものです。

伝統的に「不殺生(ふせっしょう)・不偸盗(ふちゅうとう)・不邪婬(ふじゃいん)・
不妄語(ふもうご)・不飲酒(ふおんじゅ)」という五戒があります。
「殺さない・盗まない・異性に邪まな心を持たない・ウソをつかない・
酒を飲まない」ということです。

 あらゆる生き物を全く殺さないということは不可能でしょうが、それぞれの
立場で可能な限り守ろうと心がけるところに、戒の意味があります。

 一方、律は、サンガ(僧団)ができたときに、集団生活であるサンガを
守るために作られた規則です。これは、出家してサンガに入らなければ、
守る必要はありません。
 比丘(男性修行者)は250、比丘尼(女性修行者)には、350くらいの
律があります。

 ブッダは、律が多すぎるので、自分の死後、不要だと思う律は無くしても
構わないと言ったそうです。しかし、南伝仏教である上座部(スリランカや
タイ、ミャンマーなど)の出家者は、今でもこの律を守っています。
それを彼らは誇りに思っています。時代に合わないと言われても、
あえて変えないところが、彼らの心意気でしょうか。

 ここまでは、部派仏教、上座部仏教のお話です。

僧侶は肉を食べてはいけないのか?

ブッダ・空海の思想に入る前に、予備知識として
今回から、今の日本人が持つ仏教への疑問を扱います。

よくある仏教の疑問 1
 僧侶は肉を食べてはいけないのか?

 僧侶は肉を食べてはいけないと思っている人がよくいます。
しかしブッダは、肉を食べてはいけないとは言っていません。
布施として頂いたものは、肉もありがたくいただくのが、ブッダの仏教です。

殺生はしないのが基本ですから、自ら動物を殺して食べるのは禁止です。
しかし、すでに死んでいるものを、食べることは禁止しませんでした。

しかし、このブッダの姿勢は、修行者として低く見られることがあります。
肉を食べないヒンズー教の修行者と比べられたとき、肉を食べる仏教僧の
方が、堕落しているように見られがちなのです。

これは価値観の問題で、仏教僧が堕落しているわけではないのですが、
一般人から見ると、肉食を断っている方が、何か高尚に見えるのでしょう。

 そのような背景があるからだと思いますが、大乗仏教ができると、
肉食を禁止するようになっていきます。
 より大衆に入っていこうとする大乗仏教では、肉食を断つ方が、
受け入れられやすかったのかもしれません。

 時々、初期の仏教よりも、大乗仏教の方が戒律がゆるくなったと
思っている人がいますが、それは逆です。仏教は大乗仏教になって、
一層厳しくなった面があります。そのひとつが肉食禁止です。

 ただし、今の日本の伝統仏教教団は、ほとんど肉食を禁止していないと
思います。高野山の僧侶も普通に肉魚を食べています。
 真言宗では、加行(修行場にこもり外との接触を断って行なう修行)の間は、
肉、魚、にんにくなどは一切禁止、いわゆる精進料理しかありません。
 加行が終われば普通に肉魚を食べています。
他の宗派も、だいたい同様ではないでしょうか。

日本の仏教の誕生

思想に入る前の予備知識として、仏教の歴史と背景をお届けしています。

日本に仏教を導入した最初の立役者は、聖徳太子だと言われています。
聖徳太子は歴史的実在性が疑われるなど、よく分からない存在ですが、
一応、日本仏教の開祖と言ってもいいのではないかと思います。

 平安時代には、「最澄・空海」という2大僧侶が出現します。
最澄は、比叡山に天台宗を開きます。
今の日本のほとんどの仏教は、天台宗を基とします。
空海は、京都の東寺を中心に真言宗を広めていきます。
 
 最澄は、法華経を中心にして、密教も導入しました。
あらゆる仏教を併行して学ぶ、総合大学的な宗派です。
一方空海は、密教の中に最高の教えを見、密教に特化していきます。
すべての教えを密教のなかに取り込んでいきます。
あらゆる学を包括する密教単科大学のようなものです。

鎌倉時代になると、法然、親鸞、日蓮、道元、臨済、などの僧侶が出現し、
鎌倉仏教と呼ばれる新たな仏教を創っていきます。
浄土宗、浄土真宗、日蓮宗、禅宗など、今の日本の大半の仏教は
この時代に生まれたものです。

鎌倉時代の仏教は、総合大学である天台宗で学んだ僧侶が、その一部に
特化して、単純化・精鋭化していったものと、考えることができます。
鎌倉仏教は、大衆に仏教を広めました。
特に、法然、親鸞、日蓮などは、その傾向が強く見られます。

鎌倉時代の大衆に、難しい仏教理論を語っても、理解されないでしょう。
鎌倉仏教は、当時の大衆に分かるように創られ、語られたのです。

 このような日本仏教は、世界的に見るとかなり、特異です。
ナンにつけて食べていたインド風カレーが、中国に輸入されて中華風
カレーに変わり、中華風カレーを輸入した日本では、和風カレーうどんに
変わったようなものです。

確かにインドカレーの流れは引いているが、並べてみるとかなり違います。
同じ部類の料理とも言えるし、違う料理にも見えます。

同じ神を信じているにも関わらず、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教と
別の宗教に分かれていく流れと比較すると、面白いものがあります。

 空海を始めとして日本の宗祖と言われる人たちは、ブッダ以来の仏教を
正確に伝えるというよりも、当時の日本に合った新たな仏教を創りだして
きました。
そして、彼らが創りだしてきた新たな仏教は、いずれも、思想的、哲学的、
宗教的にみて、極めてハイレベルだと言うことができます。

 単に教えを曲げて、低俗化・大衆化したのではなく、一流の思想のもとに
新たな仏教を生み出したところは、日本が世界に誇れるところだと思います。

---次回から 「よくある仏教の疑問」を始めます---

密教の誕生

 大乗仏教のなかで、後期に発展したものを密教といいます。
密教とは、後期大乗仏教のことです。密教は、思想や理論は、
それまでの大乗仏教と大きく異なるわけではありません。
しかし修行法は大きく変わりました。

 密教では、マンダラという仏が描かれたものを使います。
マントラ(真言)を唱えます。護摩といって火を焚きます。
これらのものは、基本的にはブッダが認めなかったものです。
火を焚いたりマントラを唱えるようなことを、ブッダは否定していたわけです。

 それにも関わらず、密教では火を焚いたりします。なぜでしょうか?
それは、その方が、より簡単に早く覚りを得られると考えたからです。
密教が発生した理由のひとつは、早く覚りを得ることです。

 それまでの大乗仏教では、この世に生きている間には、
ほとんどの人は覚りを得られなかったのです。
 それを、今生きているこの世で、素早く覚りを得て、
この世で幸せになろうとするのが密教です。

 そのために、瞑想を重視し、マンダラ、火、真言など、さまざまなツールを
使って、効果的に瞑想できるようにしたのです。
 密教では、今生きているこの世で幸せになる、幸せに過ごす、ということが
強調されます。
難しい修行を延々と続けなければ、幸せになれないというのでは、
密教的には困るわけです。

 密教が今残るのは、日本とチベットの密教だけです。チベットの状況は、
最近やっとニュースなどで流されるようになってきたので、
ご存知の方も多いと思います。

一般に、日本に伝えられた密教を中期密教、チベットに伝えられた密教を
後期密教といいます。
この連載では、日本の密教を中心にしますが、必要に応じて
チベット密教も取り上げます。

---次回は 「日本仏教の誕生」 金曜日発行予定です。---

より以前の記事一覧