ブログブッダの思想

信仰よりも理解

本日より、ブッダの思想を順次お伝えしていきます。
ブッダが終われば、空海の思想へ移ります。
ブッダと空海の思想は、同じところもあり、異なるところもあります。

私は両方学んだ方が良いと思うのですが、宗派という枠組みでは、
難しいものがあります。
(真言宗では、ブッダについてそれほど詳しくやりませんし、
上座部では空海(密教)の名前すら出てこないでしょう。)

ここでは、宗派を超えて、自由に説を展開していきたいと考えています。

信仰よりも理解

 宗教というと信仰、それは普通の感覚でしょう。
信仰というのは、分けも分からないものを信じること、と一般的には思われているでしょう。

しかしそうだとすると、ブッダの教えは、日本人が考える宗教とは、少し赴きが違うようです。
ブッダは、覚りの構造を明らかにし、覚りに至る修行法を明らかにしました。
それを理解し、やってみようと思うなら、修行に取り組めばよいと考えます。
修行が進めば覚りに到着します。
しかし何かを信仰すると覚りを得られるという教えではありません。

修行を進めるには、「信」が必要です。指導者への「信」、指導法への「信」。
「こんなことで本当に覚りを得られるのかな?この指導は正しいのかな?」
と疑いながら修行をしていては、修行の効果は低くなります。
これは、スポーツなどでも同じことです。

ブッダは、信仰よりも理解を求めます。
智慧と体感と信仰を比較し、ブッダは智慧に最高の価値を置いています。
本当にブッダが言っている事、僧侶が言っていることが正しいのか、
信頼をおけることなのか、よく聴いて、よく考えて理解することが大切です。
理解できないことを、無理やり盲信することは危険です。

しかし、ひとたびこの道で行くと決心したならば、迷わず精進することが必要です。
どんな芸事、スポーツでも同じことです。

アントニオ猪木も言っています。
「この道を行けばどうなるものか。 危ぶむなかれ、危ぶめば道はなし。
踏み出せばその一足が道となり、その一足が道となる。
迷わず行けよ、行けばわかるさ。ありがとう!! 」 by アントニオ猪木

いくぞー!! 1・2・3 ダー!!

盲信と信仰の区別 

ブッダの考えは、「信仰よりも理解」と書きましたが、
信仰がないわけではありません。
信仰すれば救われるという発想がないだけで、信仰そのものはあります。

 では、信仰が盲信にならないためには、どうすればいいでしょうか?
そのためには、事実と論理と信仰の区別を明確に持っておくことが
必要だと考えます。
そして事実を信仰によって、捻じ曲げないことが大切です。

仏教は、ものごとをありのままに見ることを基本とします。
ですから、事実は事実としてありのままに見ます。
事実を否定したら、それは仏教ではありません。
科学的に証明されたことを否定することも仏教にはありません。

しかし、何が事実なのか知ることは、実はたやすくありません。
多くの人は、事実でないことを事実と思っています。
論理的に正しいと、それを事実と混同してしまうこともよく起こります。

仏教は極めて論理的な宗教です。
世界最高レベルの数学力を持つインド人の中で、論争を繰り返して
生き残るためには、論理的であることが求められます。
情緒的に受け取る日本人とは、そこがかなり違っています。

しかし仏典に書いてあることがすべて事実かといえば、そうではありません。
そこには、想像、直観、比喩、矮小、肥大、神秘体験、など
さまざまな記述があります。仏教は科学ではないのです。

科学教の信者は、科学と言われると簡単に信じてしまいます。
仏教は精密な論理で組み立てられているので、それを前面に出して、
科学のように説明、布教、勧誘することも可能です。しかし、
科学的と言われると、中身も確かめずに信じるのでは、盲信と変わりません。

世のなかには、事実が分からず、論理でも証明できないことがあります。
仏教は、分からないことは分からないと、そのままに認めます。
仏教は、ものごとをありのままに見ることが基本なのです。

宇宙の始まりは分かりません。ビッグバンだとすると、
ビッグバンの前は分かりません。
宇宙の果ては、想像することができません。
死後の世界は、証明することができません。

ブッダは、これらの問題に対して、「無記」として答えません。
空海は、これらの問題を「不可得」としたうえで、
「不可得」である存在そのものを引き受けます。

証明ができなければ科学は成り立ちませんが、
証明がなくても信仰は存在します。
そして信仰のあり方はさまざまですが、明確な認識の上に
信仰は成り立っています。

如実智見 ~あるがままに観る~

如実とは「あるがまま」ということ、如実智見とは、
「あるがままに見、あるがままに知る」という意味です。
仏教において一番基本となり、かつ最も重要なことのひとつは、
この「如実智見」です。

仏教は智慧の宗教と言うこともできます。この場合の智慧とは、
単なる知識ではなく、ものごとの本質を見抜くような力、
洞察力などを意味します。

覚りとは、真実を知ることであり、それは「如実智見」によって成されます。
あるものをあるがままに見ることができなければ、
覚りを得ることはできません。

人は見たくないものは見ないようにし、見たいものを見たいように見る
性質があります。
それでは真実は見えません。
偏見や思い込み、自分の価値観を離れて、ものごとを見ることが必要です。

自分自身の心も同じです。
自分の心を、いつわりなく、そのままに見ることができれば、
さまざまな不安や悩みは消え去り、覚りに近づくことができます。
多くの人はそれができないので、自己理解が充分に進みません。

「如実知見」は、人が生きていく上で、とても重要なポイントなのです。

執着を離れる

 人々に苦しみがある大きな原因は「執着」です。
仕事、趣味、食べ物、持ち物、子供、恋人... どんなものであっても、
それに執着すると、そこから苦が生じます。

何かを失いたくない、手放したくない、と思ったら、
その瞬間からそれを失うことを怖れ、それに執着します。
今何かを持っていても持っていなくても、そのことを手放していれば、
苦は生じません。

覚りを得た人は、完全に執着を無くした人です。
それは無理としても、今より執着を少なくしていけば、
それだけで心は軽くなります。

何でも自分のものだと思っていると執着が生まれます。
ブッダは、自分の身心すらも自分のものではないと観ました。

一時的に縁によって生じているものは、また縁によって消え去っていく。
その理(ことわり)を観る人は、執着を無くしていくでしょう。

人生は「苦」であるとは

ブッダは、人生は「苦」であると言いました。
これは、なかなか一般の人には理解されないことです。
「いや、人生楽しいこともあるよ」と思うでしょう。

確かに人生には楽しいこともあります。だから楽しいことだけを
考えていたい、というのが普通の人でしょう。
しかし、「生きる」ということを、ありのままに見るならば、
そこに必ず「苦」が存在するのです。

「苦」がまったくなく、快楽だけが存在することはありません。
苦しみがあるから、それを克服した時の喜びや楽しさを
感じるのであって、もし永遠に快楽が続いたら、人はもはや
それを快楽と感じません。

だから、人は快楽を続けたいがために、もっと、もっとと、
欲求を膨らませていきます。
しかし、そうなればなるほど、その欲求を満たすことは
難しくなり、満足は得られなくなります。

そもそも「苦」とそれに対する「喜楽」がなければ、
生命を維持することもしなくなります。
腹が減って、そして食べると美味いから、必然的にそういう
活動が生まれるわけで、何も食べなくても苦しくならないなら、
あえて食べないでしょう。

「空腹は最大のスパイス」と言われるように、腹が減らないので
あれば、美味しいと思うこともなくなっていくでしょう。
これでは、生命存続の危機です。

スポーツ界では、よくハングリー精神が足りない、などと
平気でいいますが、要は、もっと苦しめということです。
実は「苦」がなければ人は動かないということを、
分かっているわけです。

ブッダは、ありのままに世界を見ることで、生命の根元にある
「苦」を見つけ、生きることが「苦」とともにあると観ました。
同時に、その「苦」は無くすことができると言いました。
それが覚り、解脱への道であり、涅槃への道、修行の道なのです。

といっても完璧に「苦」をなくすことは、生きる活力そのものに
関わる問題となります。
だから瞑想では、苦を減らし、喜や楽を感じるところを
初禅(最初の瞑想段階)としています。

生老病死

生老病死は、四苦と言われる「苦」です。四苦八苦の四苦です。
生の苦はよく分からなくても、老病死の苦は、現代人にも
よく分かると思います。

アンチエイジングなどが流行るのも、老の苦から
逃れたいからです。
病や死は、普段ほとんどの人は考えないようにしています。
大病をしたり、死が近づいてくると、自分の人生は
これで良かったのか、などと考え出します。

ブッダは王子として裕福だったときから、
この問題を考えています。
日本でも、「武士道は死ぬことと見つけたり」の心構えを
忘れなかった武士は、死を常に見ながら生きていたことでしょう。

生老病死も、執着があるから苦として認識されます。
医学、薬学などを駆使して、生老病死に対処することも
もちろん必要です。
しかしそれだけでは、生老病死の苦は決してなくなりません。

執着が苦を生み出していることを、真に理解する時、
これらの苦も和らいでいきます。

ブッダの悟りを一言で言うと

 覚りとは何か? 一般的には非常に分かり難いと思います。仏教の中でも、
初期仏教、大乗仏教、密教などによって説明の仕方が異なります。
 「如実知見」によってあらゆる執着を無くすこと、と考えても
間違いではありませんが、伝統的には、「四聖諦(ししょうたい)」によって、
ブッダの覚りを説明します。

「四聖諦」とは4つの聖なる真理という意味です。
4つの真理は、
苦諦(くたい)・集諦(じったい)・滅諦(めったい)・道諦(どうたい)。

苦諦とは,迷いの生存は苦であるという真理。

集諦とは,苦の生起する原因についての真理。
 簡単言えば、貪(むさぼ)り、嫌悪(けんお)などの渇愛(かつあい)が
 苦を引き起こすということ。

滅諦とは,苦の止滅についての真理。     
 渇愛などの煩悩を捨て去ることで苦は止滅するということ。

道諦とは,苦の止滅に到る道筋についての真理。
 八正道(はっしょうどう)などの実践により実現できる。

執着を無くすというのは、渇愛などの煩悩を捨て去る(滅諦)ことです。
実践法(修行法)である、八正道は、後日解説します。

※四聖諦(ししょうたい):四諦(したい)ともいう。

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苦の根本原因は

苦の原因は、貪(むさぼ)り、嫌悪(けんお)、怒りなどの
渇愛(かつあい)です。
貪りは、財物などをあきることなく求める渇愛です。
嫌悪、怒りも、自分の好み以外のものを排除しようとする渇愛です。

ブッダは、貪(むさぼ)りや嫌悪、怒りが苦を引き起こすことを
観る智慧がないことを、苦から離れられない理由だと考えました。

この智慧のない状態を「無明」といいます。
「無明」こそ根本的な煩悩であり、根本原因である「無明」を捨て去り、
ありのままに観る智慧を獲得することで、苦から離れられるのです。

根本的な煩悩を、貪(むさぼ)り、嫌悪(怒り)、愚痴(ぐち)の3つに
まとめられる事もあります。
貪欲(とんよく)、瞋恚(しんい、しんに)、愚癡(ぐち)の三毒、
略して「貪瞋癡(とんじんち)の三毒」と言われ、
これは大乗仏教でもよく使われます。

「貪りを捨て、怒りを捨て、嫌悪を捨て、愚かさを捨て、
真実を観る智慧を獲得する」
これこそが、ブッダの教えの根幹と言っても過言ではないでしょう。

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苦を滅するブッダの論理 

苦を滅するブッダの論理 ~ 縁起を見るものは法を見る

 ブッダが発見した法は、縁起とみることができます。
縁起とは、因と縁によって、ものごとは生じるというものの見方です。
生老病死という苦の発生とその止滅を、縁起によって説明したものを
十二縁起(十二因縁)といいます。

これは、
「無明によって行が生じ、行によって識が生じ、...と続き、
生によって老いと死という苦が生じる」という風に、十二の因が
縁によって苦を生み出す縁起を説きます。

続いて
「無明が滅するとき行が滅し、行が滅するとき識が滅し、...と続き、
生が滅するとき老いと死という苦が滅する」と、苦の滅する縁起を説きます。

「これがあるときにかれが成立し、
 これが生ずることによりかれが生じ、
 これがないときにかれが成立することなく、
 これが滅することによりかれが滅する。 」
という論理こそ、「苦」を滅するブッダの修行の基本です。

突き詰めて言うなれば、
人は、
「無明によって苦を生じる」「無明を滅するとき、苦を滅する」
となります。

ブッダは、この世界のあらゆることは縁起によって起こることを見いだし、
苦が生じる縁起を観、それを滅する道を見つけたのです。
ブッダの偉大さは、苦の生と滅を縁起という論理で説明し、
それを実際に観るための修行法を編み出したことです。

十二縁起は、ブッダが発見し、四聖諦は、それを簡略化したという説があります。
ブッダが発見した四聖諦の教えを、後世の弟子たちが、十二縁起の形に
拡大したという説があります。
四聖諦も十二縁起も、後世の作で、ブッダ自身は、そのようにまとめていない
という説があります。
十二縁起も四聖諦も、ブッダ自身が説いたという説があります。

その辺りはよく分かりませんが、無明、貪り、嫌悪、怒りを捨てることは、
間違いありません。
縁起が、ブッダの発見した法の中心的概念であることも間違いないでしょう。

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無常とは何か

あらゆるものは、それ単独で固定的に存在するものではなく、
無常(常ならざるもの)です。

 世界は無常(常に変化するもの)という考え方は、ブッダだけでなく、
世界中にたくさんあります。
無常自体は、ブッダ固有の考え方とは言えないでしょう。

 大切なことは、無常を知識として知ることではなく、無常を観、
無常を理解することです。
ブッダは瞑想によって、ものの生滅を見、無常であることを知ったのです。
ブッダは、自身の体験によって無常を語るのであり、
知識や理論によって無常を語っているのではないのです。

「万物は流転する」「川の水は同じように見えて常に入れ替わっている」
というようなマクロ的な観点で無常を語るのではなく、
瞑想によって身体や心の生成と消滅を見、物質や心は常住しているのでは
なく、常に変化している言っているのです。

一般的な法則性のレベルで、無常と言っているのとは、かなり違っています。
一般法則性レベル、知識のレベルで無常を語っても、
覚りは得ることは難しいでしょう。
自身でそれを観、その理(ことわり)を知ることが大切なのです。

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