宗教とは何か?
日本人は無宗教が多いと言われていますが、無宗教とは何でしょう?
仏教や密教は、一応宗教に分類されているのですが、では宗教とは何でしょう?
実は、宗教とはReligionの訳語として明治になって広まったもので、定義もない、よく分からない言葉なのです。
最近、教育に関する話題の中でも、道徳、愛国心、宗教などの言葉が出てきますが、そもそも言葉の意味が分かっていないのに、それを議論することは非常に危険です。
例えば、手を合わせて「いただきます」と学校で子供に言わせるのは、宗教教育にあたるという親がいます。
これは、宗教行為なのか、習慣なのか、マナーなのか、何なのでしょう?
どこまでを宗教として線引きするのでしょうか。
また靖国神社に代わって無宗教の慰霊施設を作ろうという意見があります。無宗教者に慰霊施設は必要なのでしょうか? 慰霊するということ自体、既に宗教的行為ではないでしょうか。そう考えると、「あらゆる宗教に関係なく参拝可能な全宗教的慰霊施設」という方が適切かもしれません。
このように宗教・無宗教という言葉は、定義が無いにも関わらず、何となくイメージで語っているのが現状です。しかもそれは、Religionの訳語としてキリスト教的宗教観が反映されているとみられることもあります。
ここでは、混乱している「宗教」という概念を多少なりとも整理したいと思います。
宗教に信仰は必要か?
一般的には神や仏を信仰するのが宗教と思われています。しかしタイやスリランカなどに伝わる伝統派仏教(テーラワーダ仏教)では、仏教に信仰は必要ないという言い方もします。教義を聞いて正しく理解し、それが良いと思えば実践すればいいのであって、信仰は必要ではないという立場を打ち出すことがあります。したがって、信仰よりも正しく教義(法)を理解するということが重視されます。
インドでは昔から哲学的・論理的な議論が好まれ、宗教といえども論理的な議論から逃れることは出来ませんでした。インド人の卓越した数学的センスや、IT業界でいきなり世界のトップレベルになる人材の優秀さは、このような論理好きの国民性が反映しているように思えます。
一方、キリスト教や日本に伝わった大乗仏教では、信仰を強調されることが多いようです。神や仏、宗祖への信仰があってこそ始めて宗教としての価値があり、信仰があるからこそ、神仏に救われたり、深い真理の世界を理解することができると考えられます。
現実には、テーラワーダの国々でも大衆は信仰が中心であり、大乗の世界でも、正しい智慧が強調されるなど、信仰と理解は2分されるものではなく、両方必要というのが基本だと思いますが、教団や教義によって重点の置き方が異なってくるようです。この信仰と理解の問題は、「救いと修行」、「信仰と洗脳」、などとも絡んでくる問題と思われます。
救いの宗教 と 瞑想の宗教
宗教を大別すると、「救いの宗教」と「瞑想の宗教」に分けることができます。
神や仏に救われたい、救ってくださると考えるのが、救いの宗教です。ユダヤ教、キリスト教、イスラム教や、阿弥陀如来が極楽浄土に導いてくださると考える浄土真宗などは、救いを主目的とした宗教でしょう。
瞑想によって心を磨き、精神性を高めるのが、瞑想の宗教です。釈尊が説かれた原始仏教や、大乗仏教でも禅宗などは、瞑想によって自己を高めることを主目的とした宗教でしょう。
「救いの宗教」も「瞑想の宗教」も、最終的には自分の心が平安を得、心豊かに快適に過ごせるようになることは同じです。それが神仏からの救済なのか、瞑想による修行によるものなのかという違いがあります。
ややこしいのは、実際にある宗教が、きれいに2分されるのではなく、混在する形で存在することです。初期仏教は出家者にとっては瞑想の宗教でしょうが、在家者にとっては救いの宗教です。大乗仏教になるにしたがって、救いの部分が大きくなっていきます。密教は瞑想による修行が基本ですが、弘法大師空海を慕う大師信仰などは救いの宗教でしょう。加持祈祷をお願いするのも、救いを期待しているからでしょう。
インドで仏教が滅んだ時、多くの仏教徒がイスラム教に改宗しましたが、救いの宗教であるイスラム教に多くの人が魅了されたのかもしれません。
創唱宗教 と 自然宗教
この言葉は、『日本人はなぜ無宗教なのか』(阿満利麿著)でなされている分類です。
「創唱宗教」とは、特定人物の教義をベースにした宗教です。つまり教祖のいる仏教やキリスト教などが相当します。 それに対して自然発生的に成立してくる宗教を「自然宗教」と呼んでいます。土着の信仰などは「自然宗教」と言えるでしょう。
日本の神道は、元々自然宗教的なところが大きかったものが、明治時代に国家神道的な位置づけになり、半強制的な要素が入りましたが、終戦とともに強制がなくなり、逆に宗教観が崩れ去っていったようです。
現在の日本人は自分を無宗教と思っている人が多いですが、それは特定の教祖を奉る宗教を信じていないというだけであって、自然宗教的な感覚は持ち合わせていると見るほうが自然だと思います。そしてその自然宗教観に、仏教の思想が交じり合い、独特の宗教観になっているようです。例えば、元々仏教は、死んだ人の魂があの世に存在するなどとは考えませんが、日本人の宗教観と一体になり、お彼岸などの風習として今に残っているのでしょう。
宗教とどう付き合うか
日本人は創唱宗教(特定の教祖の教え)に縛られずに社会を構築している貴重な国家です。仏教も儒教も神道もキリスト教もイスラム教も、その教義にほとんど関係なく社会が存在していることは、あらゆる思想・宗教に公平な素晴らしい社会だと思います。
しかしひとたびモラル低下が始まると、歯止めがきかないという現実も明らかになってきました。法的に規制をかけない限り、何をやっても構わないという精神性の蔓延です。人の物を盗んではいけないというのを、法律で禁止されているからダメだと思うのか、法律に関係なくダメだと思うのか、この感覚の違いは大きいです。
現実にどこまで出来るかは別にして、少なくとも心を磨き魂を清らかにしていくことが大切だと感じなければ、日本人の精神的レベルダウンは避けられないと思います。
実際、武士道を始めとして商人にまで道を説いていた江戸時代をみると、身体的にも精神的にもハイレベルな日本人の存在が見受けられます。それはごく一部のエリートだけの特徴ではなく、社会全体のレベルの高さだったようです。江戸末期、西欧諸国が驚いた日本人の文化と、それを支える精神性の高さというものを、今一度我々の心に復興することができれば、世界に類を見ない素晴らしい社会になると思います。
それは単に古い概念を持ち出してくるのではなく、今の自由な社会を活かす形で、新たな道を築いていくものになるでしょう。その時、古臭いカビの生えた宗教でもなく、危険な新興宗教でもなく、真っ当な意味での宗教の概念は、大いに役に立つものと考えます。
洗脳 マインドコントロール
上に危険な新興宗教と書きましたが、宗教で困るのは、洗脳やマインドコントロール、それに伴うしつこい勧誘です。これは確かに大きな問題ですが、心理学やコーチング、気功、東洋医学、自己啓発セミナーなど、いろいろ見るなかで分かったのは、結局どの世界でもマインドコントロールされる人はされるという現実です。
マインドコントロールも実は定義の無いよく分からない言葉で、広くとらえれば、私達は全員マインドコントロールされています。人は今生きているこの世界が、夢なのか現実なのか確認する手立てがありません。たから「MATRIX」という映画が成り立つわけです。それが私たちの認識の限界です。ブッダの教えは、「全員がマインドコントロールされているのだから、それに気づいて、そこから解脱する道である」という風にも解釈することも可能です。
マスメディアの発信する情報は、かなりフィルターがかかっています。ある特定の制限のかけられた一方的な情報は、私たちの思考をある方向に向けるには十分です。世論動向などの中に、片寄った情報の影響を見る人も多いことでしょう。しかし、結局全員マインドコントロールされれば、別に怖くないということになりますから、一般社会と離反するような概念を植えつけることをマインドコントロールと考えればいいでしょう。
このように私達の思考は、自分で考えているつもりでも簡単に操作されてしまう性質を持っています。このような心の性質をうまく使えば、催眠療法などで心の不安を消す方向にも使えますし、逆にマインドコントロールして支配下に置くようなこともできます。
何か病気を治してもらったり、心の不安を見事に当てられたりすると、その人を信用し、そのうち、その人が言っていることなら、どんなことでも正しいと思ってしまうような人も、いろいろ見てきました。
このような状況は、その人を信じていたいという欲求の強さや、ものごとを客観化して把握する能力の欠如など、様々な要素が絡んでいるのだと思います。仏教本来の「あるがままに事実を観る」という姿勢は、このようなことに対処する眼を養うもののはずですが、仏教系にもマインドコントロールと思われる団体があるのが、難しいところです。
いずれにせよ、人の心に関わる団体は、常にオープンな姿勢、情報公開を貫いて欲しいと思います。そうでない団体とは、変に関わらないほうが良いと思います。ひとたびマインドコントロールされると、その後でどんな情報が入ってきても、そこから抜け出すことは非常に困難になります。 【 橋本
文隆 】
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