第3章思想編 真言密教の思想 1
Ⅰ.真言密教の思想
この章では空海に始まる真言密教の思想を中心に検討していきます。空海の密教は、『大日経』『金剛頂経』を基本にするとはいえ、それまでの中期密教とは明らかに異なる部分があります。ここでは、密教の一般的な特徴と空海独自の密教思想の両方を概観していきます。
1. 密教の特徴
密教の歴史で述べたように、密教は大乗仏教後期に発展した新しい仏教であり、元々は、それまでの仏教を顕教とし、それに対して用いられた言葉です。しかし現在では密教という用語は、もっと幅広く使用されています。
例えばチベット仏教では、後期の仏教経典をタントラと呼び、所期の仏教経典(スートラ(経))と区別しています。日本における密教とタントラ仏教は、本来一致するものではありませんが、日本では一般的にこれをチベット密教と呼び、密教という概念で扱うようになっています。 (1)
このように幅広い概念を持つ密教であり、その解釈は人によって異なるところもありますが、ここでは空海の思想(真言密教)をベースにしながら、密教によく見られる特徴を見ていくこととします。
衆生の秘密と如来の秘密
密教とは「秘密の教え」という意味ですが、その秘密とはいかなる意味なのでしょうか?
空海は『弁顕密二教論』のなかで、「いわゆる秘密に且く二義あり。一には衆生秘密、二には如来秘密なり。」と「衆生の秘密」と「如来の秘密」という2つの観点から秘密を説明しています。
衆生(未だ覚らぬ人)は、煩悩に覆われて真実を観ることができません。このような観点を衆生の秘密といいます。覚りというのは決して隠されたものではありませんが、それを見ることができない人にとっては秘密に見えるのです。
また、通常の言語では伝えきれない直観や体験の世界、神秘体験などの世界を、それを理解する状況やレベルに達せぬ者にむやみに説くことは、かえって害を及ぼすこともあり、このような観点からは如来の秘密と言えます。神秘体験を追い求めていても覚りには近づきません。我欲のために修行をしていれば、悪しき心を育てることにもなりかねません。
したがって秘密とは、その内容を真に理解するならば、それは遠くにあるものではなく、自心に具わっているものであり、真摯に修行するならば、自ずから開かれてくるものなのです。密教はその言葉から、何やら怪しげで閉ざされたイメージを持つ人も多いようです。しかし、空海が使用した「密教」という言葉は、決してそのような意味ではないのです。
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(1) チベット仏教では密教経典を、所作タントラ・行タントラ・瑜伽タントラ・無上瑜伽タントラの4つに分類します。初期密教は所作タントラ、『大日経』は行タントラ、『金剛頂経』は瑜伽タントラ、後期密教は無上瑜伽タントラという位置づけになります。
真言密教では『大日経』と『金剛頂経』を両部の大経として同格に扱いますが、チベット仏教の分類ではフェーズの異なる経典になります。『金剛頂経』やその一部である『理趣経』では、後期密教につながるような思想が見られます。
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