第2章歴史編 密教の誕生3
後期大乗仏教(密教)
7世紀に入ると『大日経』や『金剛頂経』などが作られるようになります。『大日経』と『金剛頂経』は、両部の大経と呼ばれる真言密教の基本経典であり、密教経典として、特に日本において重宝されてきました。
『大日経』『金剛頂経』を純密(じゅんみつ)、それ以前の原始的密教を雑密(ぞうみつ)と区別することもあります。
また、雑密の時代を初期密教、純密の時代を中期密教、8世紀以降にインドで発展した密教を後期密教と、3つに区分することもあります。チベットには後期密教が大量に流入しましたが、中国や日本にはほとんど取り入れられることがなく、空海以降、日本の密教は中期密教を基本に発展してきました。
後期大乗仏教の時代、すでにインドでは仏教の衰退が見られます。『西遊記』の物語で有名な玄奘三蔵(三蔵法師)がインドを訪れたのは7世紀前半ですが、著作である『大唐西域記』(だいとうさいいきき)には、すでに祇園精舎などの伽藍の荒廃が記述されています。
その後法灯を守り続けたインドの仏教は、1203年ヴィクラマシーラ寺院が破壊され、実質的にインドから消滅しました。
仏教の法灯は、仏教が伝来した各国が守ることとなったのです。
空海の密教
『大日経』や『金剛頂経』などの密教経典は、中国や日本に伝えられていきます。空海は、奈良の久米寺(くめでら)で『大日経』に出会い、密教に深い関心を持ったと伝えられています。求聞持法(ぐもんじほう)などきびしい修行を行っていた空海は、804年遣唐使とともに唐に渡り、恵果和尚(けいかかしょう)に出会い、密教の後継者と認められたのです。
恵果が滅した翌806年に、多くの経論、曼荼羅、法具などとともに空海は日本に戻ります。日本にはすでに最澄が密教経典を持ち帰っていましたが、空海は最澄とその弟子たちに灌頂を授けるなど、密教の第一人者として、真言密教を構築していきます。
空海は、三部書と呼ばれる『即身成仏義(そくしんじょうぶつぎ)』『声字実相義(しょうじじっそうぎ)』『吽字義(うんじぎ)』や、『秘密曼荼羅十住心論(ひみつまんだらじゅうじゅうしんろん)』『秘蔵宝鑰(ひぞうほうやく)』『般若心経秘鍵(はんにゃしんぎょうひけん)』などの著作を著し、真言教学を確立していきました。
また、四国の満濃池(まんのういけ)の修築を指導したり、世界に先がけて無料の私学である綜芸種智院(しゅげいしゅちいん)を設立するなど、社会的な活動にも力を発揮しています。
インドに起こった仏教は、1,000年以上の時を経て、日本において真言密教として花開いたのです。
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