第3章思想編 空海の独自思想 3
「三密加持して速疾に顕わる」
三密とは、身口意(しんくい)の三つの仏の働きを意味します。身体(身)、言葉(口)、心(意)の3つの観点から自身を捉えることは、初期仏教の時代から行なわれてきたことです。しかしそれまでの仏教では、身口意の三業という使い方が一般的であり、身体(行い)、言葉、心の悪業を戒め善業を勧めるという用い方をします。
この身口意を仏の観点からとらえ、身密・語密・心密の三密の加持によって、速やかに覚りの世界が現れると説いています。法仏の深遠なる働きを「密」といいますが、空海は衆生(凡夫)の身口意の働きも、また仏と同じであるといいます。
本来、仏と同じ働きを持つ衆生は、仏の三密と加持することができます。『即身成仏義』によれば「加持とは、如来の大悲と衆生の信心とを表す。仏日の影、衆生の心水に現ずるを加と曰い、行者の心水、よく仏日を感ずるを持と名づく。」とあります。
加持を「加」と「持」に分けて解釈するのは、空海の独創的な教説です。『大日経』は正式名を『大毘盧遮那成仏神変加持経』といい、ここでは加持を「神変加持」や「神力加持」の意味で使われています。すなわち、如来の示す不可思議な神変や威神力が加持(神変加持)であると考えられます。
空海はこのような『大日経』に加持概念を踏まえて、衆生に「持」を当てることで、衆生にも加持のあることを示し、衆生のなかにある仏を表しています。
また空海は、『大日経開題』の「法界浄心」において、加持を「入我我入」としています。仏が我に入り我が仏に入り、真に一体となっているならば、もはや仏と衆生を分けることもできません。
これは、「加」と「持」に分けた『即身成仏義』の説明と異なることとなりますが、空海は加持の真の状態を「入我我入」として示すとともに、「加」と「持」に分けることで、修行の道を示したものと私は考えています。
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