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第3章思想編 空海の独自思想 5

『声字実相義』

 『声字実相義』は、声字すなわち「ことば」が、実相(この世界の存在の真実のすがた)を表すという思想を説きます。「声字が実相である」という思想には、古来より多くの解釈があります。
 単純に、「仏の言葉は真実の言葉であり、仏の言葉である「真言」こそが世界の真実の姿(実相)を表す」と考えることもできます。そう考えることも間違っていないと思いますが、空海は『声字実相義』のなかで、より哲学的に考察をしています。

 言語が存在を表すという思想は、インド哲学にも西洋哲学にも見ることができます。インド哲学には、代表的な言語哲学派としてヴァイシェーシカ学派があり、「実在するものは、言語表現されるものであり、知られるものである」と主張します。私たちが知ることができるものは、言語によって表現されるものだけであり、この世界の存在は言語によって規定されると考えるのです。
 西洋哲学では、二十世紀にウィトゲンシュタインを始めとする言語哲学が発展しました。言語に依らない存在は認識できないと考え、この世界を言語空間として把握するわけです。

 空海は「声」と「字」に独特の意味を持たせて、空海独自の言語哲学を展開します。
『声字実相義』は、最初に大意を述べ、次にその解釈や説明がなされるという構成になっています。

最初にある大意は

  「それ如来の説法は、必ず文字に籍(よ)る。
  文字の所在は、六塵(ろくじん)その体(たい)なり。
  六塵の本は、法仏の三密、即ち是れなり。」

で始まります。

 「如来(仏)の説法は、必ず文字によって行なわれる」と述べたうえで、文字の根拠は、六塵(色声香味触法という六種の認識対象)であると述べています。現代用語で言えば、視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚の五感と意識が認識する対象のことです。
 そして、その六塵(六種の認識対象)の本源は、仏の身口意三密の働きであるといいます。私たちが認識する世界は仏の働きに満ちており、「声字実相」の根本には、仏の身口意三つの働きがあるというのです。
 そして、覚りの世界(帰るべき根源)は、すぐれた教えによらなければ示すことができず、すぐれた教えは声字によって明らかになる、声字が明らかであってこそ、真実の相が顕わになると説いています。
 空海は、大意の最後に、密教も顕教も仏教以外の教えも、「声字実相」によらないものはないと述べ、「声字実相」は密教だけにとどまらない一般法則であるとしています。

声字実相の大意を述べた後、その解釈・解説が始まります。

 まず、体の内外にある空気(入息、出息)が少しでも動けば、そこに響きがあり、それを声(しょう)と名づけています。別のところでは、世界を構成する、地・水・火・風という四種の構成要素が触れ合うと、そこに必ず音響が生じ、それも声と呼んでいます。
 このことから空海は「声(しょう)」を、単に人の発する言葉だけでなく、大自然の発する「ことば」、森羅万象の「ことば」につながるものとして「声」をとらえていたと考えられます。

そして、声と字と実相の関係を、次のように表現しています。

 「響(ひびき)きは必ず(しょう)による。声はすなわち響きの本(もと)なり。声発(おこ)って虚(むな)しからず。必ず物のを表するを、号してと曰(い)うなり。名は必ず体を招く、これを実相と名づく。声・字・実相の三種、まちまちに別れたるをと名づく。」

現代文にすると次のように解釈することができます。

「響き(音響)はかならず「声(しょう)」によるものであり、声は響きの根本である。
声がおこると、そこに意味が生じ、物事のをあらわすこととなる。
音声によって生じる名を明らかにするものが「」である。
名は、それに対応する実体を示すものであり、それを「実相」と名づける。
声と字と実相の三種が、それぞれに区別あるのを「」というのである。」

 実相とは、この世界の存在の真実(ありのまま)の様相を意味します。その実相(真実の様相)は、「如来の説法は必ず文字による」とあるように、「」によって示されます。
 「字」は、実体につけられた「名」(意味)を表現するもので、「名」は声とともに生じるものですから、世界の実相は、声と字とともにあると考えられます。人は、「声と字」を通して世界を認識しますから、結局、「声と字(声字)こそが実相を表す」と言えるわけです。

 ここで空海がいう声字とは、日常で使用される「言葉」とは異なります。空海は、「五大にみな響きあり」と言い、世界の構成要素(の象徴)である地・水・火・風・空の響きそのものに「声」を見いだしています。
 すなわち、この世界のすべて(森羅万象)の響きすべてを「声」として聞き、それに意味を見出し「字」として表す。この世界そのものが語りかける「ことば(声字)」に耳を傾け、そこに空海は実相(真実の姿)を見いだしているのです。

 これは人の認識という観点からは、次のように説明することができます。
私たちは視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚の五感と意識を使って世界を理解しています。これは、五感や意識でもってある対象を認識したということであり、それはその対象に「名(意味)」を見いだしたことになります。そして、そのように対象を認識できるのは、対象に「声(響き)」があるからです。
 「声(響き)」が無いのであれば「名(意味)」は生じず、したがって私たちはそれを認識することはできません。「声(響き)」があるからこそ「名(意味)」が生じ、私たちはそれを認識することができ、それを「」で表すことができるのです。
 そしてこの世界は、「五大に響きあり」とあるように、すべてのものは「声(響き)」を伴っているのですから、この世界の存在(実相)は、声と字で現されることとなるわけです。

 仏教では一般的に「因分可説・果分不可説」と言い、覚りの世界(果分)は言葉では説明ができないとします。しかしこの世界の本質を無碍瑜伽と見、色心(物質と精神)の区別、能所(主体と客体)の区別もないとする空海は、この世界に現れる「ことば(声字)」こそが、真実を表していると見ているわけです。

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