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第3章思想編 空海の独自思想 6

コラム<言葉と存在>

 一般的には、言葉の前に客観的存在である世界があり、その客観的存在である世界の一部を人間が認識し、それを言葉を使って表現していると考えられるかもしれません。
 しかし、言葉が世界の存在を現すという思想は、インド哲学にも西洋の哲学にも存在します。

 インド哲学では、ヴァイシェーシカ学派が代表的な言語哲学派になります。
 西洋哲学者であるウィトゲンシュタインは、世界は論理空間であるという言語哲学を展開します。

 私たちが存在について語るときには、それは言葉や論理によって認識されている必要があります。神が実在しているかどうかは証明できませんが、神という概念は言葉や論理によって認識することができます。
 したがって、「(実在を証明できない)神」という存在について語ること(考えること)は可能です。

 しかし、言葉や論理によって認識されないのであれば、そもそも語ることも考えることもできません。語ることも考えることもできないものは、存在していると断言することはできません。存在するかもしれないし存在しないかもしれない、という考え方は妥当ですが、語ることができない以上、永遠に答えはでません。
 したがって、存在は言葉(論理)によって語られるという面から考えると、「この世界の存在は、言葉(論理)とともにある」という思想が生まれてきます。つまり、この世界は言語空間(論理空間)であると考えるのです。

 では、「言葉(論理)が世界の存在である」としたならば、言葉(論理)を超越した世界については、どう考えるべきでしょうか? これについては、哲学者や宗教家によって様々な見解・立場があります。

 二十世紀最大の哲学者とも言われるウィトゲンシュタインは、「語りえぬものについては、人は沈黙しなければならない」と言います。
 空海は、また異なる見解を持ちます。それを空海は『吽字義(うんじぎ)』のなかで説いています。

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