第3章思想編 空海の独自思想 9
汙字一切諸法損減不可得(うじいっさいしょほうそんげんふかとく)
汙字の字義では、この世界の損減(消滅変化)も不可得であるとします。仏教では古来より、「生じたものは滅する」と説き、それを無常と呼んでいます。
確かに、因縁より生じたものであるならば、無常であり損減(消滅変化)するでしょうが、因縁により生じたものでないならば、無常であるとは言えないことになります。
この世界の現象を見れば、結果には原因があり、因と縁によってものごとは起こっています。それは確かに無常です。しかし、訶字と阿字の字義で考察したように、究極の原因を観るとき、世界の本源を観るとき、それは因縁によって生じたのではなく、不可得といえます。したがって、この世界の損減(消滅変化)も、覚りの眼から観るならば、やはり不可得なる存在となるのです。
空海は、「一心法界(いっしんぽつかい)は、猶(なお)し一虚(いつこ)の常住(じょうじゅう)なるが如(ごと)く」 と、絶対の覚りの世界では、唯一の虚空が常に存在しているようであると述べています。すなわち、不可得を知る仏の眼から見れば、「仏と衆生と同じく解脱(げだつ)の床に住す。此も無く彼も無く無二平等なり」 という、損減のない不変的で平等な世界となるのです。
麼字一切諸法吾我不可得(まじいっさいしょほうごがふかとく)
麼字について空海は、固定的存在としての我(アートマン)の存在を否定し、無我であると述べるとともに、「唯し大日如来のみ有して、無我の中において大我を得たまえるなり」 と肯定の実義を説いています。
この大我は、明らかに自我とは異なります。仏教では実体的な自我の存在を否定し、無我を説きます。そのことは空海も同様です。しかし、覚りの眼、一切智智(すべてを知る者)から観るならば、無我のなかに大我があると説いているのです。
この大我の存在は論理的に認識することはできません。したがって大我はやはり不可得なる存在となりますが、不可得なることを認めた上で、空海は大我の存在性を認めていることになります。
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