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第3章思想編 空海の独自思想 4

「重重帝網なるを即身と名づく」

 あらゆる身体が、帝釈天の持つ網にある宝珠のように、幾重にも重なり合い映しあうことを、即身といいます。この様は、鏡に写った像を互いの鏡で相互の写しあうように、あるいは、多数の灯明が互いに照らしあい渉入しあって渾然一体となっていることに例えられています。

 さらに、
「仏身、即ち是れ衆生身、衆生身、即ち是れ仏身なり。不同にして同なり、不異にして異なり。」(仏の身体は、すなわち衆生の身体であり、衆生の身体は、すなわち仏の身体である。不同にして同一であり、不異にして異なるのである。)
と述べ、仏と私たちが実は異なるものではないことを説いています。

 このように、仏も衆生も、あらゆるものが互いに渉入し合い一体となっている様相を世界の本質と観て、それを「即身」としたのです。

 以上見てきたように、即身成仏の偈頌は、世界の存在の本質を踏まえながら、それがこの身心に顕われる仕組みを格調高く説いています。
 空海は幾重にも重なり合い無碍瑜伽する世界の本質的な存在のあり方がこの身心に表れていることを「即身」としています。そしてそのことをあるがままに知るがゆえに、自身が仏であることを感得するのです。

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即身仏と即身成仏 
即身成仏を、生きたまま食を断ち、ミイラとなっていくものと勘違いしている人は、意外に多いように思われます。このようにミイラ化した身体を仏とするのは、即身仏といい、即身成仏の思想とはまったく異なるものです。

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