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2010年4月

第3章思想編 コミュニケーション心理学の思想 6

5.社会構成主義
 ベイトソンのコミュニケーション論やシステム論は、すべてのブリーフセラピーの基盤となるものですが、それに加えて、ナラティブ・セラピーやSFA(Solution Focused Approach)などでは、社会構成主義の思想をベースに心理療法を開発しています。
 社会構成主義は、バーガーとルックマンの『現実の社会的構成』をひとつの始まりとする一連の思想を意味します。社会心理学者であるケネス・ガーゲンは、社会学と心理学を融合した思想や理論を発表し、社会構成主義に基づく心理療法に多大な影響を与えています。

 社会構成主義の基本的な主張は「現実は社会的に構成される」ということです。私たちが生きるこの世界は、他者との相互交流を通して構成されるもので、他と切り離された「個」単独が現実を創りだすことはないと考えます。
 このような社会構成主義の思想は、西洋に伝統的に伝わる“心身二元論”、“経験主義”、“合理主義”のいずれをも批判する、ポストモダニズムの思想のひとつと考えることができます。

 身心二元論は、世界は精神と物質の二種類から構成されると考えます。しかし、精神が物質に影響を与え、物質が精神に影響を与えるならば、その交流のメカニズムを明らかにする必要があります。
物質でない精神は、どのようにして物質に物理的変化をもたらすのか? 
物質は、どのような仕組みで物質でない精神にメッセージを伝えるのか? 
身心二元論では、物質と物質でないものの間にコミュニケーションが必要となりますが、その相互作用する仕組みは説明されていません。

 経験主義の立場では知識や認識は経験によって生まれると考えます。確かに多くの知識・認識は経験によって生まれます。しかし経験の認識は、ひとりひとり異なるものです。同じ花を見ても、植物学者と芸術家では、まったく違う認識が生まれるでしょう。したがって経験によって得る知識やイメージは、ひとりひとりに異なる世界を生みだします。そして、私たちはひとりひとり固有の世界を持っていますが、その世界を互いに確認することは不可能です。このことは経験主義から「あるがままの世界」、真理の世界を語ることは困難であることを意味します。全員が共通して持つ真理という存在を、確認することができないからです。
 また私たちは、「気分が高揚する」「気分が落ち込む」というように、「上は良」「下は悪」というメタファ(隠喩)を使っています。このようなメタファは、全員が共通して経験したものではなく、先天的な概念として保持しているようです。経験主義だけから世界を語ることは、やはり難しいようです。

 合理主義の立場では、世界を直接に経験するのではなく、経験に先立つ理性(概念)の存在により、世界の真理に到達できると考えます。私たちが認知している世界は、私たち個々が認識している世界であって、世界の本質的な姿そのものではありません。アルフレッド・コージブスキーが「地図と土地は別のものである」というように、脳が認識していること(地図)と世界そのもの(土地)とは明らかに異なります。
それでは合理主義のように、先天的な合理的理性によって真理に到達できると考えることが正しいのでしょうか? そうであるならば、その先天的合理的理性を明らかにする必要があります。
 数学がその理性を表すと考えられたこともありました。科学万能時代には、数学的思考こそ世界を解き明かし、真理に到達する道であると考えられました。しかし、数学のなかにもユークリッド幾何学や非ユークリッド幾何学があるように、絶対的真理を解く数学は存在しません。数学は、ある体系のなかの真理を明らかにすることはできても、その体系自体の正しさは証明できないのです。
 このように考えていくと、合理主義が世界を明らかにするとは、もはや言えないのです。

 社会構成主義はこれらの立場を離れ、「あらゆる現実は、言説に媒介された相互行為によって構成される」 と考えます。すでに存在する現実を認識するのではなく、言葉による記述(物語り)が現実の世界を構成すると考えます。
 「ゲーム」という概念を使用するならば、事実とは不変的な事実ではなく、「事実ゲーム(特定の限られたゲームの中にある事実)」として存在するのです。

ケネス・ガーゲンは、社会構成主義の4つのテーゼを次のように規定しています。
1. 私たちが世界や自己を理解するために用いる言葉は、「事実」によって規定されない。
2. 記述や説明、そしてあらゆる表現の形式は、人々の関係から意味を与えられる。
3. 私たちは、何かを記述したり説明したり、あるいは別の方法で表現したりする時、同時に、自分たちの未来をも創造している。
4. 自分たちの理解のあり方について反省することが、明るい未来にとって不可欠である。

 社会構成主義では、他から切り離された「個」としての存在を認めていません。存在は、言語による事実(言語ゲーム上の意味)としてしか語ることはできないからです。
一般的には、「心」は個の中に存在すると考え、個の中にある「心」と、他の個の中にある「心」がコミュニケートすると考えます。しかしそれでは、関係の前に個としての存在があることになります。
 社会構成主義の立場では、そうは考えないのです。他から切り離された「心」は存在しません。「心」は世界との関係の中で始めて意味を持つことができます。少なくとも人の認識においては、関係の中で意味を見出す以外にないのです。

 以上概観してきたように、ブリーフセラピーでは、システム論やコミュニケーション語用論、社会構成主義などを理論的な基盤としています。これらの理論に共通するキーワードは「関係」です。すべては「関係」のうえに存在しているのであり、事実は関係を通してしか考えることはできないのです。

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第3章思想編 コミュニケーション心理学の思想 5

4.精神というシステム

 ベイトソンは、ユングの『死者への7つの語らい』を引用しながら、力と衝撃によって支配される物理的領域に対して、精神は対比や差異によって支配される領域であるとしています。そして「説明の本質が<情報>ないし<比較>にあるようなところには、かならず精神過程があるとみる。」と精神活動を情報の観点から述べています。そしてその情報を「差異(ちがい)を生む差異(ちがい) (a difference which makes a difference)」と定義しています。
 情報と差異の関係をベイトソンは「インク自体は信号でもメッセージでもない。紙とインクのあいだにある差異こそが信号なのだ。」という例をあげて説明しています。
このように物理法則ではなく差異の認識によって動く精神を、ベイトソンは「精神とは相互に反応する部分ないし構成要素の集体である。精神プロセスとは常に部分間の相互反応の連続である。」と定義しています。そして精神の動きを「精神の各部の間で起こる相互反応の引き金を引くものは差異である。精神は差異の知らせしか受容しない。」と見ています。

 ベイトソンは、精神を皮膚の内側(身体内)だけに働くものとは考えていません。例えば人が斧で木を切るとき、その人の精神はどこに存在すると考えられるでしょうか。
脳の中に精神はあるのでしょうか?
斧を持つ指先までが精神の存在場所でしょうか?
自分が持っている斧まで含まれるのでしょうか?
斧を打ち込む木にまで精神は及ぶのでしょうか?

 人が斧で木を切るとき、無数のメッセージが人と斧と木の間を行き交っています。人(の精神)は、そのメッセージを受け取りながら、斧の持ち方、力の入れ方、打ち下ろす角度、刃先を入れる位置などを決定していきます。斧が木に触れた後も、その衝撃、感触、皮のめくれぐあいなど、無数のメッセージが視覚、聴覚、触覚などを通じてフィードバックされ、そのメッセージによって認識が変化し、力の入れ方などが変化していきます。
 このように、人、斧、木などを含むシステムのなかに無数の差異が存在し、その差異が生むメッセージによって精神は動いています。このとき精神は、身体外部と切り離されたものではなく、外部からのメッセージ(フィードバック)とともに存在していると考えられます。ここからベイトソンは、精神という存在を、皮膚の外側の経路と、そこを運ばれてくるメッセージを含めた、ひとつのシステムとして考えます。精神は身体内にのみ存在すると考えるのではなく、もっと大きなシステムとの相互作用のなかで考えていく必要があるのです。

 さらにベイトソンは、精神のユニットが進化における生存のユニットと同じであると主張します。「精神」とよんでいるもののありかが、大きな生のシステム-生態系―の全体であるとするならば、そのシステムの輪郭線を別のレベル(階型)で引いてみれば、進化構造の全体に精神が行きわたっていると考えることができると主張したのです。
このように「精神」をシステムとする立場からは、「最広義の「精神」にはさまざまなサブ・システムが階層をなして積みあがっており、そのどれもが「一個の精神」と呼びうる」と理解することができるのです。

 ベイトソンは、世界を物理的領域と精神的領域に分けて説明していますが、身心二元論に立っているわけではありません。私たちの宇宙は、物理的に決定されるだけでなく、それに加えて(そしてつねにそれと相伴うかたちで)心的にも決定されると主張しているのです。その心的特性とは、超越者から与えられるものではなく、この世界に内在するものです。しかしそれは、この世界を構成する最少粒子が精神的な特性を持つということではありません。ベイトソンの見る心性とは、この世界にある関係のみが持つ機能のことなのです。 (1)

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(1)   『精神の生態学』「形式、実体、差異」p.618–619

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第3章思想編 コミュニケーション心理学の思想 4

3.人間コミュニケーションの公理

 ベイトソンの理論を引き継いだMRIグループでは、語用論からみた人間コミュニケーションの公理として、5つの試案を発表しています。 (1)
 それを基にして『コミュニケーションの臨床心理学』(若島孔文著)では、公理を次のように修正しています。

●第一公理:人はコミュニケーションしないわけにはいかない。
 下位公理:すべての行動はコミュニケーションである。
●第二公理:全てのコミュニケーションは内容と関係の側面を持ち、後者は前者をクラス化/枠づける、メタコミュニケーショナルな機能を持つ。
●第三公理:関係がどういう性質を持つかはコミュニケーションに参加する人のコミュニケーションの流れの区切り方/パンクチュエーションを条件とする。
●第四公理:人類はデジタルにもアナログにもコミュニケートする。デジタル言語は複雑で高度の文法構造を有するが、関係レベルでの意味論を欠く。一方、アナログ言語は意味論は有するが、関係を明確に規定する文法を欠く。
●第五公理:全てのコミュニケーションは相補性に基づくか相称性に基づくかで、相補的なコミュニケーションを営むか、相称的なコミュニケーションを営むかの、どちらかになる。

 第一公理は、会話することだけがコミュニケーションではなく、無言でも無言のメッセージが伝わるように、存在そのものがコミュニケーションとなることを意味しています。例えば、会話の途中で相手が急に黙って何も言わなくなったとしたら、会話が無いことによって、何らかの想いがこちらに起こるでしょう。これは、会話を止めることによって、あるメッセージが伝わってくることを意味します。つまり、黙っていても話していても、もし何らかの存在を感じたとするならば、そこにはメッセージが存在するということであり、コミュニケーションが存在すると言えるのです。

 またこの公理では、関係がメタコミュニケーションとして、重要な役割を果たしていることを示しています。関係はコミュニケーションの流れの区切り方(パンクチュエーション)に関わってきます。

 例えば、
夫の帰宅がいつも遅い。
妻が夫に、頻繁に文句を言う。
 という夫婦を考えてみましょう。

 夫は「妻がガミガミ言うので、家に帰りたくないので、帰宅が遅くなる」と考えています。
 妻は「夫の帰りが遅いので、言いたくはないけど、つい文句を言ってしまう」と考えています。

 <夫の帰宅が遅い。>
 <妻が文句を言う。>

 この二つの事実は変わらなくても、そのコミュニケーションの区切り方によって、夫と妻は全く異なる見解を持つこととなります。

 このようなケースの場合、もし夫が早く帰るようにすると、妻の文句が減ると同時に、妻の言い分が正しかったことを認めることとなります。
 妻が文句を止めると、夫が早く帰るようになると同時に、夫の言い分が正しかったと認めることとなります。
 したがって、夫婦がともに自分の正当性を主張している場合、両者ともこのような行動を取ろうとはせず、解決が長引くこととなるのです。

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(1)『人間コミュニケーションの語用論』原書は1967年刊。

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第3章思想編 コミュニケーション心理学の思想 3

2.ダブルバインド

 このようにコミュニケーションをコンテキストから捉えるところから、ベイトソンは「ダブルバインド」という現象を発見しました。「ダブルバインド」とは、ひとつのメッセージのなかに、相矛盾するコンテキストが同時に存在するようなメッセージのことです。
 よくある例は、言語的コミュニケーションと非言語的コミュニケーションが矛盾しているメッセージです。

例えば、次のようなダブルバインドは日常的に発生しています。

● ウソをついている子供に対して、「本当のことを言わないと怒るわよ」と、怒りを顕にして怒るお母さん。
● 「君の好きなようにしていいんだよ」と言いながら、「俺の言うことを聞かなかったら許さんぞ」と無言の圧力をかける上司。
● 「絶対怒らないから本当のことを言って」と言っているが、本当のことを言ったら絶対怒ると思わせる彼女。

 ベイトソンは当初「ダブルバインド」を精神分裂症(統合失調症)の原因として研究していましたが、現在では「ダブルバインド」は、日常のコミュニケーションにも頻繁に現れる、一般的なコミュニケーションパターンとして研究されています。
ベイトソンの理論を引き継いだMRIグループでは、「ダブルバインド」が成立する要件として、次のものをあげています。

(1) 2人あるいはそれ以上の人間が、1人、数人あるいは全員にとって、身体的かつ心理的、あるいはそのどちらかの高度な生存価値をともなう強い関係にある。
(2) そのような文脈において、非常に精巧に組み立てられていて、(a)何かを主張し、(b)それ自身の主張に関して何かを主張し、(c)二つの主張が互いに相いれないようなメッセージが与えられる。
(3) メッセージを受け取る者は、メッセージについてメタコミュニケーション(メッセージ)したり、引き下がったりしてみても、メッセージによって作られる枠の外に飛び出すことはできない。従って、メッセージが論理的に意味をなさないものであっても、語用論的には真実。それに反応しないわけにはいかない。

 相手のメッセージが矛盾していることが分かったとしても、そこから逃れる術がなく、その矛盾したメッセージを受けざるを得ないとき、ダブルバインドの状況におちいります。
 ダブルバインドは、統合失調症などの問題を引き起こす一方、クライアントが抱える問題を解決することに使うことも可能です。ミルトン・エリクソンはベイトソンに学ぶことなく、自身の療法のなかでダブルバインドを使用して、クライアントの問題を解決していました。ベイトソンはそれを「治療的ダブルバインド」と呼んでいます。

 問題を引き起こすダブルバインドでは、矛盾するメッセージのどちらを選択しても、必ず失敗し、良い結果を得ることができませんが、治療的ダブルバインドでは、矛盾するメッセージのどちらを選択しても、必ず成功するようにメッセージを送ります。
 例えば、失敗を恐れているクライアントに「必ず(意識的に)失敗しろ」と指示すれば、クライアントは必ず成功します。もしクライアントが失敗したのなら、それは指示に従ったのだから問題はなく、もし失敗しなかったのなら、それは本来クライアントが望むことなのですから問題はありません。
 このようにダブルバインド理論は、心理的問題の発生と解決の両面で、ブリーフセラピーの重要な理論となっていきます。
 仏教の世界はダブルバインドを多用しており、その問題と可能性については後述します。

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第3章思想編 コミュニケーション心理学の思想 2

コラム 『般若心経』と論理階型論 

 宮坂宥洪氏は、ラッセルの論理階型論的な般若心経論を展開しています。
宮坂宥洪氏の『真釈般若心経』では、4層のフロア構造をモデルとして『般若心経』を読み解いています。

 『般若心経』では、眼耳鼻舌身意も無く、十二縁起も無いと説いています。十二縁起はブッダが説いた中心的な法ですが、『般若心経』ではブッダが説いた法は無いと言っているのです。
 この一見、ブッダを否定するかのような『般若心経』を、宮坂宥洪氏は階層モデルを使って説明します。
 宮坂宥洪氏は、一階を幼児レベル、二階を世間レベル、三階を小乗仏教レベル、四階を大乗仏教レベルと設定したうえで、無我を説く三階レベルを超えたところに、空を説く四階を置きます。一階から四階への階梯は、弁証法的な発展形態であり、空海の『十住心論』を思わせるものでもあります。(1)

 宮坂宥洪氏はこのなかで、十二縁起などの初期仏教の教えを「無」とする『般若心経』は、フロアが異なる故の言説であると言います。三階のフロア(小乗仏教レベル)では正しい縁起の法も、四階のフロア(大乗仏教レベル)から語れば「諸法は空」となるのです。つまり『般若心経』は無我を語る小乗仏教と、次元が異なるところから語りかけていることになります。

 階層が異なることにより言説が異なるという宮坂宥洪氏の階層モデルは、ラッセルの論理階型論に相当します。ラッセルは、階型(コンテキストのレベル)が異なることにより、同じ言葉が異なる意味で使われることを示しました。言葉の意味を創造するものはコンテキストですから、階型(コンテキストのレベル)が異なることは、必然的に異なる言説となるのです。

※(1)
 幼児レベル、世間レベル、小乗仏教レベル、大乗仏教レベルという階層構造は、ユングの自己実現(個性化の過程)やケン・ウィルパーの意識のスペクトラム論とも相似している。
 自我が確立する前の段階(幼児レベル/プレパーソナル)から自我の確立(世間レベル/パーソナル)へと進み、無我・空(小乗・大乗仏教レベル/トランスパーソナル)へと進化するとも考えられる。

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第3章思想編 コミュニケーション心理学の思想 1

Ⅱ.ブリーフセラピー(コミュニケーション心理学)の思想
 ブリーフセラピーはグレゴリー・ベイトソンの思想や理論を基盤として発展してきた心理療法であり、コミュニケーション論が大きな柱となっています。ベイトソン以降、ブリーフセラピーは様々な形に発展していますが、そこには一貫してベイトソンの思想が流れています。ここではベイトソンの思想を中心にしながら、各種ブリーフセラピーの代表的な思想を見ていくこととします。

1.コンテキスト
 ブリーフセラピーは、グレゴリー・ベイトソンのサイバネティクス(通信制御工学理論)、コミュニケーション論、システム論などを理論的なベースとしています。ベイトソンはサイバネティクスやシステム論の考えを取り入れながらコミュニケーション論を確立していきますが、その際に大きな影響を与えたのは、ラッセルの論理階型理論です。
 ラッセルはホワイトヘッドとの共著『数学原理』(Principia Mathematica, 1913.)のなかで、論理階型論を展開しています。論理階型論は、「要素の集合全体は、その集合の要素となりえない」という理論です。「メンバー」と「メンバーが集合したクラス」は論理階型レベルが異なり、混在は避けなければいけないとしたものです。

 例えば図形というクラスのメンバーとして三角や円があるとき、図形という階型と三角という階型は、明らかに異なります。三角というクラスにメンバーとして正三角形や二等辺三角形などがある場合は、三角と正三角形はクラスが異なります。個と集団、人と人類なども階型が異なるものとなります。
 しかし「すべてのものを含む集合」は、「すべてのもの」の中に、自分自身も含まれることになります。自分自身も世界の一員であるならば、当然「すべてのもの」の中に含まれるからです。したがって、「すべてのものを含む集合」は、メンバーのなかにクラスが混在するというパラドックス(矛盾)が生じます。このようなパラドック研究は、ラッセルの得意とするところです。

 階型の混在は避けなければいけないとする数学理論に対して、コミュニケーションにおいて階型の混在は、頻繁に生じるとベイトソンは考えました。これは、自然言語において言葉は多義的であり、同じ言葉が異なる意味、異なる階型で使用されているからであり、そのことを意識せずに使われているからです。
 例えば「コミュニッケーション」という言葉は、日常の用語では会話や対話の意味で使われますが、ITの世界では、より広範囲なメッセージ交換システムの意味で「コミュニケーション」という言葉は使われます。しかし同じ「コミュニケーション」という言葉を使ったときには、混在して使われる可能性があります。これはコミュニケーションギャップの大きな要因となりうるのです。

 二十世紀紀最大の哲学者とも称されるウィトゲンシュタイン(1889~1951)は、後期の著作『哲学探究』のなかで「言語ゲーム」という概念を打ち出します。言語は言語そのものに意味はなく、ゲームのなかで始めて意味をもちます。「チェックメイト」などのチェスの用語は、チェスというゲームのルールの上に意味が生じるのであって、「チェックメイト」という言葉そのものに意味はありません。チェスというゲームが無くなれば「チェックメイト」という言葉は意味を持たなくなりますし、チェスというゲームのルールを変えれば、「チェックメイト」の意味を変えることも可能です。
 このようにゲームという観点から言語を考えていくと、言語は言語単独で意味を持つのではなく、ある状況(ゲーム)を前提として意味を持つことになります。言語を、使用される状況や文脈との関係から捉える言語論は「語用論(プラグマティズム)」と言われます。

 この語用論的なコミュニケーションをベイトソンも受け継ぎ、ブリーフセラピーの中心的な理論となっていきます。
 ベイトソンはコミュニケーションをコンテキスト(文脈・背景)の観点から説明します。言葉そのもの(コンテンツ)には意味がありませんが、言葉に意味を与えるもの(コンテキスト)が存在します。
 しかしひとつの言葉(コンテンツ)に対して、ひとつのコンテキストとは限りません。「学校に行きたくない」という言葉は、本当に学校に行きたくないと思っていることもあれば、行きたいけれども抵抗があるということもあります。あるいは、「学校に行きたくない」という言葉によって相手の関心を引きたい、つまり「もっと私に注目して。私を可愛がって。」ということを訴えたいこともあります。

 このように言葉は状況によって意味が変わるものであり、送り手と受け手がさまざまなコンテキストのなかで言葉を交換することになります。メッセージの送り手は、自分が発している言葉であっても、そのコンテキストに気づいていないこともよくあります。
 「あなたのためを思って、私は厳しく言っているのよ。」と子どもに向かって言っている親は、実際自分ではそう思っているかもしれませんが、心のなかには、「他人から、だらしのない親、子どもの教育も出来ない親と見られたくない」という思いがあるかもしれません。人は自分を正当化する理由を作り出し、それを真実だと思い込むところがあります。したがって、自分が発する言葉のコンテキストに自分で気づかないということが発生するのです。

 このようにコンテキストは、自分でさえ気づかないこともあり、また相手に正確に伝わらないことがあります。言葉(コンテンツ)の交換が正確に行なわれても、お互いのコンテキストが異なる場合、そこにコミュニケーションギャップが生じます。
 ラッセルの唱えた論理階型も、コミュニケーションの世界ではコンテキストとして把握することができます。階型が異なるということは、コンテキストが異なることを意味します。そして先にも述べたように、階型の混在はコミュニケーションにおいては、頻繁に生じているのです。

ベイトソンは言葉の背後にあるコンテキストから、コミュニケーションを深く洞察していきます。

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