第3章思想編 空海とコミュニケーション心理学の思想1
Ⅲ.空海とコミュニケーション心理学の思想
これまで見てきたように、空海を祖とする真言密教の思想と、グレゴリー・ベイトソンに始まるブリーフセラピー(コミュニケーション心理学)の思想は、当然異なるところもありますが、いくつかの共通性も見受けられます。
ここでは思想的な観点から、密教とブリーフセラピーを比較してみます。
1.空とコンテキスト
空は大乗仏教の最も代表的な思想のひとつです。空は立場や文脈によって様々な解釈が存在しますが、その基本となる思想は一連の『般若経』によって表され、ナーガルジュナ(龍樹)を祖とする中観派によって体系化されています。
空の思想は、大乗仏教の中心的な思想となっていきますが、その基本となるところは、すべてのものはそれ自体で自性を持たず、縁起によって成り立つということです。すなわち、物であれ心であれ、それ単独でこの世界に存在するということはなく、縁起によって一時的に現象していると見るのです。
縁起によって現象するとは、すべてのものは他のものに依存して生起し、存在し、消滅することを意味します。他の原因や条件に依存せずに存在するものはありません。ものの本質は、この依存性(縁起)にあると見るのです。そして、他の多くの原因や条件に依存して一時的に存在しているものに、固定的な本体は存在せず、それは空なのです。
空の思想における縁起は、原因と結果という一方向の因縁ではありません。多くの原因や条件に互いに依存する双方向の縁起となります。
『般若心経』には「一切皆空(いっさいかいくう)」すべては空(すべては自性を欠いている)と説かれています。これは、すべての存在は縁起によって起こることを意味しています。縁起とは実体ではなく、ものを存在(生滅)させる働きです。この縁起の働きを空と呼んでいるのです。
空海はこの双方向の縁起という考え方をさらに深め、世界の存在を「六大無碍瑜伽」と表現し、互いにさまたげることなく自在に渉入し合う関係を存在の本質としています。空海の思想は、空の思想をひとつの基盤として構築されているのです。
この空の思想を、コミュニケーション論におけるコンテキストの観点から考えてみます。コンテキストは言葉(コンテンツ)に意味を与えるものです。言葉が世界の存在を現すと考えるならば、言葉に意味を与えるということは、この世界の存在に意味を与えることになります。
ゲームという用語を使うならば、事実は、ゲームのうえで初めて意味を持ち事実となります。チェックメイトなどのチェスの用語は、チェスというゲームの上で初めて意味を持ちます。ゲームが変われば、チェックメイトが意味することも変わり、異なる世界となります。
同様に、全ての事実は特定のゲームの上でそれぞれの意味を持つことになります。したがって、事実とは普遍的事実ではなく、そのゲームの上の事実になります。同じ現象であっても、ゲームが変わればその意味は変わり、事実とされることが異なってきます。
ここでいうゲームとは、あるコンテキストを意味しています。したがってこのゲームの例えは、「あるコンテキストの上で言葉に意味が生じ、それが事実となる」と表現することができます。逆に言えば、コンテキストのないところには、意味は生じず事実もない、つまりコンテキストがなければ、存在自体がないことになるわけです。
このように、ものを存在させる働きをコンテキストと考えならば、それは縁起の働きと同様のものとなります。その縁起の働きを空と呼ぶのですから、空はこの世界の現象(コンテンツ)に対するコンテキストと考えることができます。
しかしゲームの例えと空には異なるところがあります。ゲームは普遍的・根源的な事実を意味するのではなく、ゲームごとの個別の事実を生み出します。それに対して空は、「一切皆空」とあるように、一切の事物に普遍的に存在する本質を現そうとしています。
したがって空は、すべての事物(一切のコンテンツ)を存在させる普遍的・根源的なコンテキストと考えることができるでしょう。
しかし、普遍的・根源的なコンテキストの説明は困難です。コンテキストはコンテンツに意味を与え、この世界に存在させるものですから、コンテキスト自体の説明を行おうとすれば、そのコンテキストに意味を与える別のコンテキストが必要になります。説明とは、ある意味を与えることですから、コンテキストの説明とは、コンテキストをコンテンツ化し、別のコンテキストでもって意味を与える作業といえます。
そうであるならば、この世界(一切のコンテンツ)を存在させているコンテキストの説明は、論理的に不可能となります。なぜなら、この世界のすべてを含むコンテキストに意味を与える、さらに大きなコンテキストは、認識不可能だからです。
古来より、「空は言葉では説明ができない」、「言葉で説明したときに空は空でなくなる」、「言説を離れたものが空である」などと言われてきましたが、コンテキスト論から考えてもそうなるでしょう。空を言葉で説明した時点で、空はこの世界の根源的なコンテキストではなく、ひとつのコンテンツとして扱われていることになります。その時点でそれはもはや空ではないのです。
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