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2010年6月

第4章技法編 密教の技法 7

第4章 技法編
1.密教の技法 - 心理療法の観点から
  1.三密加持
    4.加持祈祷

 加持と祈祷は本来別々の用語ですが、現在は合わせて使われることが多いようです。
息災・増益・敬愛・降伏という四種の護摩法 が代表的なものです。

 加持祈祷などの祈願によって病気や災難などから逃れようとする行為は、古くから存在しますが、一般的には、宗教・信仰・迷信の世界として扱われるため、科学の土俵で論議されることは少ないようです。
 しかし真言密教では、加持祈祷によって病気の快癒や生きる力を与えてきた事例が数多く報告されています。医学的な検証にも積極的に応じている僧侶もいますが、まだ明確な科学的論理は構築されていないと思われます。

 加持祈祷には呪術的な側面もありますが、原理的に見れば三密加持の実践であり、それ以外の何ものでもありません。したがって加持祈祷は密教行者にとっては当然行うべき行法となりますが、先にも述べましたように、一般の在家者には阿字観以外の行法は伝えられません。そこでここでは、一般在家者が行者に加持祈祷を願い出るケースを検討します。

 心理療法の観点から加持祈祷を論じることは難しいものがありますが、ここでは、ブリーフセラピストでもあるスコット・ミラーの説から加持祈祷を考察することとします。
 スコット・ミラーは、『心理療法・その基礎なるもの』のなかでランバートの研究成果を引用し、心理療法における4つの共通治療要因と、治療への影響度を示しています。
その研究によれば、4つの治療要因と治療への影響度は次のようになります。

①治療外要因             40%
②治療関係要因           30%
③モデルや技法要因        15%
④期待、希望、プラシーボ要因 15%

 この研究によれば、心理療法の各流派が持つ技法そのものは、治療に対して15%の役割しか果たしていません。最も大きな影響を与えているのは治療外で起こっているさまざまな出来事です。それは偶然の出来事や、家族や友人との会話、音楽やスポーツなど多様なものがあります。クライアントを取り巻く環境は、治療に多大な影響を与えているのです。

 治療関係要因は、クライアントとセラピストとの関係自体が及ぼす影響であり、30%の影響が認められています。つまり、クライアントとセラピストの関係が適切であることは、心理療法の技法よりも影響力が大きいということになります。
期待やプラシーボによる暗示も、15%の治療効果を持っていることが示されています。

 この研究データから加持祈祷を考えた場合、心理療法として大きな効果を発揮する可能性を見ることができます。
 治療効果を発揮する大きな治療要因として、治療関係要因が30%の影響度を持っています。心理療法においては、治療関係要因は、セラピストとクライアントの関係となりますが、加持祈祷では、行者と受者の関係だけでなく、仏との関係が含まれてきます。仏との関係が構築されることは、「同行二人」が”Be with”として効果を発揮することと、構造的には同じであると考えられます。

 また密教の行は、さまざまな法具や炎などを使い、独特の場を構築します。この場は、仏との関係を構築する重要な場であると同時に、その場自体が意識変容をもたらす装置として機能すると考えられます。寺院など加持祈祷の場に出向くことは、その非日常的な特殊な場が、治療外要因として効果を発揮することも考えられます。これに加えて期待やプラシーボ効果が加われば、かなり効果的な心理療法になる可能性があるのではないでしょうか。

 以上の考察から、加持祈祷は心理療法的に次のように解釈することが可能であると考えます。

「加持祈祷は、行者との関係だけでなく、仏との特別な治療関係を構築する。加持祈祷の非日常的な場は、治療外要因として効果を発揮する可能性があり、また密教や行に対する信仰は、期待やプラシーボ要因として働くことが考えられる。以上の要因が総合的に機能する状況を想定すれば、加持祈祷には高い治療効果があると考えられる。」

 以上は仮説にすぎませんが、そのように考えると加持祈祷が心理療法として効果を発揮してきた理由の一因が理解できるのではないでしょうか。

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第4章技法編 密教の技法 6

第4章 技法編
1.密教の技法 - 心理療法の観点から
  1.三密加持
    3.遍路・参拝 同行二人


 四国遍路を始めとする寺院への参拝は、人びとへの癒しや力づけの力を持っていると思われます。その意味では、心理療法に類似した効果が遍路や参拝にあると考えられます。

 四国八十八ヶ所の遍路には、毎年数十万人の人が訪れると言われ、その中でさまざまなドラマが展開されています。自分自身の問題の解決や他の人々の回復などを祈願して、遍路や参拝が行われています。そこには、より良い人生に向けた人々の願いがあり、心理的な支援(救い)が存在します。

 その効果を理論的に説明することは難しいところがありますが、「祈りや信心の力」、「寺院や自然などの場が持つ力」が大きく影響していると思われます。


 同行二人は、現在の真言宗においては極めて重要なキーワードとなっており、特に四国遍路においては、信仰の中心的概念になっていると考えられます。
 これは、お大師さま(空海)と共に歩き、常にお大師さま(空海)が同行してくださる、という信仰です。もちろんこれは空海の存命中に存在したものではなく、空海が今も生きているという後世の大師信仰とともに生まれてきた思想です。
 
 しかし、苦しい四国遍路の修行のなかで、お大師さま(空海)の力を感じたり、奇跡的な出来事に出会ったり、遍路完遂の力づけを得たという話は数多く存在します。人々への癒しや精神的な力づけという視点で見れば、同行二人は、実践効果の高い思想であり手法であると考えることができます。

 同行二人という信仰を、心理療法という視点から考察してみたいと思います。
セラピーやコーチングなどのコミュニケーションにおいては、セラピストやカウンセラーの“あり方”が重要だと言われています。それは、態度(attitude)や“Be”、”Being”などと表現されます。

 そして同行二人という信仰は、” Be with(共にいる)”というあり方に近いものがあると考えられます。” Be with”は、”God Be with You(神ともにいまして)”のように宗教的文脈でも使われますが、心理療法の場面では、「クライアントと共にいる」という意味で使われます。それは、物理的と精神的の両方の意味を持ちます。
 ”Be with”には、クライアントに安心を与え、癒しの効果があり、クライアント自らの変容を支援する効果があると思われます。人はひとりでは生きていけません。孤独を好む人も、どこかで他の人とのつながりを求めています。”Be with”は、そのような人々に力を与えます。

 
この”Be with”と「同行二人」は、構造的には同じものだと考えられます。”Be with”は目の前の生身の人間であり、「同行二人」は信仰上の仏(お大師さま)という違いはあります。しかし、「自分はこの世界にひとりぼっちではない」ということを気づかせ、社会との関係のなかにおいて自らを変容させていくという面においては、同様の働きがあると考えられます。
 「同行二人」は、人を力づける素晴らしい心理療法と言っても、決して過言ではないと私は考えます。

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第4章技法編 密教の技法 5

第4章 技法編
1.密教の技法 - 心理療法の観点から
  1.三密加持
    2.阿字観(阿息観、月輪観、阿字観)

阿字観次第

 阿字観を自分でやってみたい人のために、在家用の簡単な次第を掲載します。
阿息観と月輪観を行えるようにしました。 阿息観と月輪観の両方を記してありますが、どちらかひとつだけ行っても構いません。 本格的に学ぶのであれば、専門家に習いに行くことをお勧めします。

阿字観実修作法
1. 入堂(にゅうどう)
 手を洗い口をそそぎ、瞑想場所に入る。明るすぎず暗すぎず、静かな場所が望ましい。

2. 三礼(さんらい)
 本来は本尊に向かって行うものだが、無ければアを念じながら、三度礼拝する。礼拝は、まず合掌して立ち、次に両膝を床につけ、次に両肘を床につけ、両手の平を上に向けた状態で、額を床につける。これを三度繰り返す。 宗教的には仏への礼拝だが、心理的には心を落ち着け、身心を瞑想に入りやすい状態へと移行する効果がある。

3. 着座(調身)
 結跏趺坐、または半跏坐、あるいは正座が基本の坐法である。膝を痛めているなど、これらの坐法に無理がある場合は、椅子などを使うようにする。 結跏趺坐は左足を右足の上にのせてから、右足を左足の上にのせる。半跏坐は右足を左足の上にのせるのが真言密教では基本である。禅宗とは足の組み方が逆になる。

 足の痛みや身体の柔軟性などを考慮して足を組み変えるなど、無理のないように座る。体調を考慮して、座り方を変えても構わない。坐法が決まったら、身体を垂直に伸ばし、全身の力を抜く。身体を前後左右に軽く動かし、どちらにも片寄らない中立点を探す。全身の力はできるだけ抜くようにするが、身体は常にまっすぐ伸びているようにする。
 手は膝の上あたりに置いて力を抜くか、腹の前で法界定印を組む。法界定印は、両掌を上に向け、左手四本の指(人差指、中指、薬指、小指)の上に右手四本の指をそれぞれ重ねる。両親指の先を軽く触れる程度につけ、円形に空間が出来るようにする。

4. 調息
 まず吐くことから始める。口を少しだけ開いて、ゆっくりと息を吐く。下腹が引っ込むまで吐き、すべての息を吐ききるようにする。身体内の不浄な気も、すべて息とともに吐き出す。 吐ききったら自然に息が入るのを待つ。清らかな気が全身に行き渡るように息を吸う。 この呼吸を数回行い、深い呼吸により心身が清浄な気に満たされるようにする。

5. 阿息観
 調息の吐く息に、の声をのせていく。息とともにの声がある。の響きは、喉と口だけでなく、下腹からの響き、全身の響きを感じ、全身がとなる。 音が途切れても、心のなかではを唱え続ける。有音のと無音のが繰り返されるが、途切れることなくを感じ続ける。 ある程度続けたら、の声を少しずつ小さくしていき、無音のとなる。有音のときも無音のときも、自身がであることを観じ続ける。

6. 月輪観
 月輪の掛け軸があるときは、掛け軸の月輪を見る。掛け軸が無いときは、目の前に清浄で明るい光を放つ円満な月輪があると心のなかで観ずる。 眼を閉じても月輪がはっきりと観じられるようになったら、月輪を自身の胸に引き入れる。
 月輪と一体となり、清浄で明るく円満な月輪は、自身の心であることを観ずる。月輪を十分に感じたら、掛け軸または眼の前の場所に戻す。
 月輪を自身の心として充分に観ずることができるようになれば、月輪を戻す前に、広観と斂観に進んでも構わない。

7. 出定
 阿息観と月輪観などの瞑想状態からは、ゆっくりと出るようにする。眼を閉じているときは閉じたままで、眼を開けていた場合は開けたままで、ゆっくりと深く三回呼吸する。 眼を閉じていた場合は眼をゆっくりと開ける。身体と心を感じ、ゆっくりと身体を動かしていく。決して急に動かないようにする。 足を組んでいた場合は足をゆっくりと解く。足がしびれている場合は、無理をせずしびれを取ってから動けばよい。

8. 出堂
 の心を保ち、正座し合掌し一礼して出堂する。 自宅で行う場合も、入堂や三礼という場に入る儀礼を行うと、瞑想意識を高めやすくなる。また、出定や出堂という場から出る儀礼を行うことで、瞑想意識と日常意識(生活レベルの意識)を明確に区分できるようになる。
 特に深い瞑想状態に入った場合は、自我の力が弱まるなど通常とは異なる意識状態になりやすい。瞑想を終えまた日常に戻るのであれば、出定や出堂などの儀礼により、日常生活に適した意識に切り替えるようにする。意識を日常に切り替えても、瞑想の時に体験したことは心に蓄積されるので、瞑想の経験が無になることはない。

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第4章技法編 密教の技法 4

1.密教の技法 - 心理療法の観点から
  1.三密加持
    2.阿字観(阿息観、月輪観、阿字観)


 以上見てきたように、阿字観の手法そのものは単純なものです。真言・陀羅尼として「阿」を唱え、清浄なる月輪を観ずるものです。

 特に初心においては、理屈を考えることなく、ひたすら「阿阿...」と唱えることが求められています。この指導は、戒定慧(戒律、禅定、智慧)の定を強く意識したものだと思われます。思考をめぐらしていては禅定の境地に入りにくいのです。そのため、ひたすら「阿阿」と唱えるように説かれているのでしょう。しかし熟達する過程で、本不生を明確に観じていくことが肝要です。

 また、音や字を使う「阿息観・月輪観・阿字観」は、いずれも有相の観法であり、阿字本不生である無分別智そのものではないことに注意する必要があります。いつまでも音や文字の実体にとらわれていては、真の覚りへと向かうことが出来ません。有相の観法を通じて無相に至り、阿字本不生を覚ることが大切でしょう。

 覚鑁の『無相観頌』には、「初観の時には月に似たれども、周遍の後には更に方円なし」とあり、月輪などを離れた覚り(無分別智)の境地を示されています。
 
 広観の手法を使うならば、月輪を宇宙全体にまで拡大したとき、月は宇宙であり宇宙は月となります。その時宇宙と月の境界は無くなり、月輪は存在しなくなります。有である月は、宇宙そのものになったとき、すでに有ではなく、また無でもない。つまり無分別の智が観想上に現れるのです。

 コンテキストという言葉を使うならば、月輪(自心)は、宇宙というコンテキストによって存在するコンテンツと見ることができます。月輪(自心)が宇宙と一体となった瞬間に、コンテキストとしての宇宙は存在しなくなり、同時にコンテンツとしての月輪(自心)も存在しなくなります。しかし宇宙や月輪(自心)が全く無になったわけでもありません。

 コンテキストとコンテンツの区別が無く、無でもなくまた有でもない世界、即ち二元論を超えた世界がそこに存在します。

 これにより「自」と「他」が分離したものではなく、互いに関係し合う存在であることを感得することができます。これは、縁起・相応渉入・瑜伽する状態であり、社会構成主義の主張する「関係としての存在」を表すものでもあります。

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第4章技法編 密教の技法 3

1.密教の技法 - 心理療法の観点から
  1.三密加持
    2.阿字観(阿息観、月輪観、阿字観)


 覚鑁は『字観儀(あじかんぎ)』のなかで、次のように阿字観の行法を説いています。
は悉曇(しったん)文字というインドの文字で、漢字では「阿」と表します。瞑想ではを使います。)


◆「閉目開目、ただ一向に字を注ぐべし。わが心月輪のなかに本有法然の字あり。これ本不生の理なり。」

 護身法を結び真言を唱えた後、数息観に入ったときの観意の説明です。呼吸に意識を集中しながらも、阿字本不生を観じていることが大切です。また観じている心と観じられている阿字を一体と観ずるとあります。これは仏との加持(入我我入)を意味します。


◆「口を少し開いて、出入の息を阿阿と唱念すべし。」

 吐く息吸う息を「阿」と観ずる阿息観です。生まれでるときに最初のを発して以来、悦びも悲しみもすべてはであり、は本来あるがままの陀羅尼(だらに) であるといいます。特に初心においては、その理由を問わず一心に「阿阿」と唱えるように言われています。


◆「字は月輪の種字なり。月は字の光なり。月輪は字と字の光なり。」

 続いて月輪観の解説があります。月輪は自からの円満で清浄なる心を現します。心月輪の徳を説き、月輪の自性清浄なるがゆえに、貪欲(とんよく)・瞋恚(しんに)・愚癡(ぐち)(欲望、怒り・嫌悪、無知という根源的な3つの煩悩)の三毒を離れることができます。

 その後、月輪を世界中に広げる広観(こうかん)と、広げた月輪を縮める斂観(れんかん)が説かれます。自身と世界との関係を感じるうえで、広観斂観は効果的な瞑想法となります。

 覚鑁は、時間や場所に関係なく日夜不断に取り組めば、この現世において成就すると信じ、疑わず努力するようにと勧めています。

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注)
陀羅尼(だらに):心の散乱を防ぎ、言葉に内在する力を喚起する文言、呪文。

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第4章技法編 密教の技法 2

Ⅰ.密教の技法 - 心理療法の観点から

2.阿字観(阿息観、月輪観、阿字観)
 真言密教は瞑想の宗教であり、三密加持も瞑想のひとつと考えられます。しかし三密加持を実現する多くの行法は在家者に伝授されることはなく、唯一阿字観だけが瞑想法として公開されています。心理療法の観点から密教修法を見た場合に、阿字観は最も採り入れやすい手法のひとつであると考えられます。

 阿字とは、世界の本源であり、大日如来を現します。阿字を観想する方法を明記した最初の書物は『菩提心論』と思われます。 行法次第が本格的に確立されるのは、『阿字観用心口決』以降であり、以後多くの論者が『阿字観用心口決』を引用して阿字観論を展開しています。特に「内観の聖者」と呼ばれた興教大師覚鑁(かくばん)上人 は、阿字観を非常に重視し、即身成仏の観法として、阿息観、月輪観、阿字観を詳細に説いています。

 阿字観は、阿字を観ずることによって、生ずることも滅することもないという「阿字本不生」を観ずる瞑想法(観法)です。如実知自心(本源的な自心を知ること)により即身成仏を知ります。「阿」は本源即ち仏(大日如来)であり、「阿」と一体となることで三密加持の実践となるわけです。
 また、『声字実相義』に「五大は皆響きあり、十界に言語を具す、六塵ことごとく文字なり、法身は是れ実相なり」とあるように、真言密教では、この世界には声(響き)と文字があり、声字は実相であると説きます。阿字観は、「阿」という真言を通じて声字実相を体現する瞑想法ともなっています。

 現在、阿字観として伝えられる行法には、阿字の音声を観ずる阿息観、阿字の形相を観ずる月輪観、阿字の意義を観ずる阿字観の3種類があります。覚鑁は、「息はすなわちこれ命なり」と最終臨終のときも、息の出入とともに阿を観ずるように説いています。

 密教の行法は、身心ともに健康で機根のある人に授けるものという考えかたもあります。実際、道場での修行にはそれなりの身心が必要だと思われます。しかしそれだけでは、すべての人を救う道にはなりません。覚鑁の「ただ息のなかに阿を観ずる」という方法は、道場のなかだけでなく、いつでもどこでも、そして臨終の間際にでも行うことが可能なものです。それは格別の修行を積んでこなかった人にも開かれた道なのです。

 覚鑁は、阿字観こそ、すべての人々を救う即身成仏の瞑想法だとされたのです。

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第4章技法編 密教の技法 1

 仏教では具体的な手法ややり方を方便といいます。三句の法門に「方便をもって究竟とす」とあるように、密教において方便は究極的に重要なものです。
 空海が日々どのような方便を駆使していたのかは、今となっては分かりませんが、真言密教には人びとを癒し力づけるさまざまな方法が伝えられています。
 ここでは、密教の世界で行われている手法の心理療法的考察と、ブリーフセラピー諸流派で行われている手法の密教的考察の両面からアプローチします。

Ⅰ.密教の技法 - 心理療法の観点から
1.三密加持


 『即身成仏義』に「三密加持して速疾に顕わる」とあるように、三密加持は仏(覚り)の世界をこの身心に現す思想であり、同時に実践でもあります。人の心の本質に仏性を見、即身成仏(この身このままで仏である)と考える密教において、そのこと(自身が仏であること)を、この身に現すものこそ三密加持です。
 したがって三密加持は、(少なくとも理念的には)真言密教のあらゆる修行法、実践法に存在していることになります。

 行法としての三密加持は、「身口意」すなわち身体(動作)・言葉・心の三密を、仏と同一とする行になります。技法的には、手に印を結び(身)、口に真言を唱え(口)、心に仏を観想します(意)。印・真言・観想の三者が一体となる行により、自身が仏として存在することとなるわけです。密教には多様な仏が存在しますが、各々の仏ごとに印・真言・観想が決まっています。

 三密加持の行法が深まっていくと、印と真言と観想が密接につながり統合化されるようになります。そのように行が深まった状態では、印や真言は単なる手の形や言葉ではなく、まさに仏そのものを現すこととなります。印は仏であり、真言は仏であり、仏の観想と一体となり、この身心に仏を感じるようになります。

 真言密教にはさまざまな行法が伝えられていますが、その基本となるところはすべてこの三密加持にあります。行法を行う壇に仏を迎えいれ、その仏そのものとなるのです。

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