第1章仏教と心理学

第1章 仏教と心理学 Ⅱ

3. トランスパーソナル心理学
 トランスパーソナル心理学は、行動主義心理学、精神分析、人間性心理学に続く第四の心理学として発展してきました。自己を超越する心を想定する心理学であり、さまざまな思想や技法が混在しています。
 人間性心理学の世界でも著名なアブラハム・マズローは、欲求五段階説(自己実現理論)のなかで自己実現の欲求を最上位に設定しますが、さらに至高体験に言及することによりトランスパーソナル心理学への道を切り開いていきます。
 
 1970年代にアメリカ西海岸を中心にブームとなった「ニューエイジ」は、トランスパーソナル心理学に多大な影響を与え、「ニューエイジ」発展の原動力にもなったエサレン研究所は、現在でもトランスパーソナル心理学の重要な研修場となっています。
 著名なトランスパーソナル心理学者であり思想家でもあるケン・ウィルバーは、意識の成長段階を“プレパーソナル”“パーソナル”“トランスパーソナル”と分類し、自己を超える意識を概念化しました。仏教瞑想やヨーガなどの意識変容システムは、“トランスパーソナル”を実現する有力な方法となります。
 プレパーソナルとトランスパーソナルは、自我を離れているという点では共通しています。そのため自我の確立していない未成熟な段階を聖なる次元と誤解したり、自我を超えた次元を退行的・幼児的状態と誤解することがあるといいます。
 仏教では自我の確立について語られることが少なく、無我や空を重視します。しかしケン・ウィルバーは、自我の確立を含めた発展段階のなかにトランスパーソナルを位置づけています。

 自己を超越した意識は、心理学の領域よりも宗教の領域で中心的に扱われてきたものかもしれません。至高体験など客観的に扱うことが困難な意識を対象とするトランスパーソナル心理学は、非科学的と見られることもあります。発展途上であるトランスパーソナル心理学には、玉石混合の状態かもしれませんが、臨床の場では、呼吸法や瞑想などを使い効果を上げています。仏教の思想や技法がさまざまな影響を与えていることも間違いないでしょう。

コラム ケン・ウィルバーとインテグラル思想】 
 ケン・ウィルバーは現在、インテグラル思想という独自の思想を打ち立てています。インテグラル思想の基本となるのは「AQAL」と呼ばれる概念であり、世界を4つの象限とレベルの観点から捉えています。
 4つの象限は、I(私)、We(私たち)、It(それ)、Its(それら)の4つです。同じひとつの事象に対しても、異なる観点から見れば異なる現象として現れます。4象限は、I(意志的)、We(文化的)、It(行動的)、Its(社会的、システム的)という4つの観点を提供し、世界の多様な見方を4つにまとめています。
 個人主観主義は(I)、間主観的相対主義は(We)、科学実証主義は(It)、システム理論は(Its)という風に、心理、宗教、文化、科学などさまざまな観点を含み、それらの統合的アプローチをウィルバーは主張しているようです。 またレベルという概念では、古いレベルを含みながらそれを超えていくという弁証法的な成長・発達の基本構造を語っています。
 インテグラル思想は、トランスパーソナル心理学という枠組みに収まらない大きな思想体系を目指しているように思えます。それは、儒教、道教、バラモン教から日本固有の思想までを包括した空海の「十住心論」に似ているかもしれません。


4. フォーカシング
 フォーカシングは、ユージン・ジェンドリンが開発した手法であり、カール・ロジャーズが提唱した来談者中心療法と共に使われることが多いようです。また最近では、トランスパーソナル心理学にも取り入れられています。
フォーカシングでは、身体に意識を向けそこに浮かびあがる感覚(フェルト・センス)を感じていきます。フェルト・センスを感じたら、それにピッタリくる言葉を探し、フェルト・センスとコミュニケーションします。
 この一連のプロセスは、仏教における瞑想、特にヴィパッサナー瞑想に近いものがあります。フォーカシングは仏教瞑想を基にして考え出されたものではなく、西洋心理療法のなかから生まれてきたものだと言われています。つまり仏教との直接的なつながりはないということですが、それにも関わらずその内容は仏教瞑想に近似しています。
 仏教瞑想の原点は、『大念処経(マハーサティパッターナ・スッタ)』 に示される「四念処」や『出入息念経(アーナパーナサティ・スッタ)』 などに求められます。現在東南アジアを中心に普及しているテーラワーダ仏教(上座部仏教)では、ヴィパッサナー瞑想 という名称でこれらの経典をベースとした瞑想を行っています。
四念処とは、身体、感受、心、法、の四つをありのままに観る瞑想のことですから、身体の感覚を通じて心とコミュニケーションするフォーカシングの方法は、四念処やヴィパッサナー瞑想[i]のひとつと捉えることも可能かもしれません。
 フォーカシングは、すでに臨床の場において多くの成果を実証しており、これは仏教とはまったく異なる理論体系から仏教の有効性を証明した事例といえるのではないでしょうか。

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[i] 現在上座部仏教で行われているヴィパッサナー瞑想は初期仏教の経典と異なるところも見られますが、理論的根拠として『大念処経』や『出入息念経』などが引用されています。

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第1章 仏教と心理学

 ブリーフセラピー(コミュニケーション心理学)と空海(真言密教)との関係に言及した研究は、ほとんど眼にすることはありません。しかし、心理学・心理療法と仏教との関係に関して探してみると、さまざまな研究や活動を見つけることができます。
 この章では、仏教との関係が見受けられる心理学や心理療法を、いくつかご紹介します。仏教と心理学が決して相容れないものではないことが、お分かりいただけると思います。

1.ユング心理学と仏教

 フロイトとともに夢や深層心理を研究していたユングは、意識と無意識を区別し、無意識のなかに個人的無意識と集合的無意識(普遍的無意識)を見いだしていきます。一方、大乗仏教・唯識派では、通常では人が意識していない末那(まな)識や阿頼耶(あらや)識という意識の存在を想定しています。初期仏教の時代から伝えられてきた眼(げん)・耳(に)・鼻(び)・舌(ぜつ)・身(しん)・意(い)の六つの識に加え、唯識派では、第七識として、自我執着心である末那(まな)識、第八識として、一切諸法を生みだす根源的な心としての阿頼耶(あらや)識を想定します。

 末那識・阿頼耶識と、ユングの想定する個人的無意識・集合的無意識は、必ずしも同一の内容ではありませんが、意識の下に個人レベルの潜在意識があり、そのさらに下に普遍的な潜在意識を想定する点においては共通しています。

 ユングは、禅やヨーガを西洋社会に紹介することも積極的に行なっています。『クンダリニー・ヨーガの心理学』には、クンダリニー・ヨーガを心理学の観点から講義した模様が収められており、ユングがチャクラと深層心理の関係に注目していたことが分かります。
 禅に関しては、鈴木大拙氏の『禅仏教入門』[i]の独訳に序文を書き、次のように述べています。

「これは『悟りの内容』について多くをわれわれに教えてくれる。悟りの生じることは自我という形で限定された意識による、非自我としての自己へのブレイクスルーとして解釈され、また、公式化される。このような観点は、禅に対するのみならず、マイスター・エックハルトの神秘主義にも適合される」。(河合隼雄訳)

 このようにユングは、西洋的価値観や思想を手放すことなく、しかし仏教を中心とする東洋思想に強い関心を示し、新たな心理学を構築していったのです。
 ユングの思想は、心理学の範疇を超え、科学的には証明できない話も数多く見られますが、しかしそれはユングの価値を低めるものではなく、豊かな構想を描き出す、ユングの魅力となっているように思われます。

2.認知行動療法とマインドフルネス瞑想

 認知行動療法は、行動心理学や認知心理学をベースに考えられた心理療法であり、現在最も広く認知されている心理療法のひとつです。
 行動療法は、パブロフの犬に代表されるように、心と行動を結びつけます。行動という観測可能な現象を対象にするため、心理学が求める統計データを収集しやすく、データに基づく理論化が進んでいます。
 さらに、人の認知のあり方が心に影響を及ぼすことを踏まえて、不適切な認知を適切な認知に修正していく認知療法が組み合わされ、認知行動療法として活用されています。
 このように心理学界のみならず医療の現場などでも比較的評価の高い認知行動療法ですが、瞑想と組み合わせることにより、さらに高い効果を発揮するという報告があります。
 Z.V.シーガル達は、認知行動療法とマインドフルネス瞑想(ヴィパッサナー瞑想[ii])を組み合わせた心理療法を実践し、その効果を報告しています。彼らが「マインドフルネス認知療法(MBCT)」と呼ぶプログラムの臨床研究によれば、3回以上の大うつ病を経験した患者に「MBCT」を実施した場合、うつの再燃率が66%から37%に低下しています。瞑想と治療との関係については、多数の報告がありますが、本研究は、マインドフルネス瞑想(観察型瞑想)の、うつに対する影響を示唆する貴重なデータを提供しています。[iii]

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[i] 原著は An Introduction to Zen Buddhism, 1934.(英文)
[ii] 仏教瞑想のひとつで、ミャンマー(ビルマ)などを中心に発展してきた。禅とともに世界的に有名な仏教瞑想である。
[iii] 『マインドフルネス認知療法』p.260–264 

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