第3章思想編 真言密教

第3章思想編 真言密教の思想 7

戒律
 戒律とは、仏教における修行規範や教団の規則のことです。本来、戒と律は別の言語で、戒は自律的に守ろうとする修行規範、律は仏教教団(サンガ)のための集団規則でした。したがって仏教徒であれば、出家在家を問わず戒は守ろうとするものですが、律は仏教教団(サンガ)という組織維持に必要な規則であり、仏教教団(サンガ)に所属する出家者だけが守るべきものでした。

 心理療法の世界で戒に近いものとして、倫理規定などが考えられますが、倫理規定がクライアントへの配慮を中心とするものであるのに対し、戒は自分自身の修行のために守るものという違いがあります。その基盤には信(信仰)の精神があると考えられ、それは心理療法には無い世界であると思います。

 伝統派のテーラワーダ仏教では現在でも初期の戒律を守ろうとしていますが、大乗仏教では戒と律が必ずしも明確に区別されず、また大乗戒と呼ばれる、さまざまな独自の戒が作られるようになっていきます。
 密教にも独自の戒があり、『大日経』のなかには、「四重禁戒」と呼ばれる4つの戒が説かれています。

1、 密教の正しい法を捨ててはならない
2、 菩提心を捨ててはならない
3、 法を伝えることを惜しまない
4、 生きとし生けるものを害さない

という内容であり、この戒を破るものは菩薩ではないとされています。

 戒は心の規範であり、そこには、菩薩として生きる密教思想が端的に現れているのです。

----コラム---

五戒と十善(戒)

五戒は、初期仏教の時代からある仏教のもっとも基本的な戒になります。
・不殺生(ふせっしょう): 故意に生き物を殺さない
・不偸盗(ふちゅうとう): 与えられていないものを盗まない
・不邪淫(ふじゃいん):  不適切な性関係を持たない
・不妄語(ふもうご):   うそ、偽りの言葉を言わない
・不飲酒(ふおんじゅ):  酒類を飲まない

十善戒は、元々「十善の道」として説かれていたものを戒として制定したもので、在家者にも心の指針として広く受け入れられています。

・不殺生(ふせっしょう): 故意に生き物を殺さない
・不偸盗(ふちゅうとう): 与えられていないものを盗まない
・不邪淫(ふじゃいん):  不適切な性関係を持たない
・不妄語(ふもうご):   うそ、偽りの言葉を言わない
・不綺語(ふきご):    口先だけの無益な言葉を発しない
・不悪口(ふあっく):   悪口、粗野な言葉を発しない
・不両舌(ふりょうぜつ): 人を仲違いさせるようなことを言わない
・不慳貪(ふけんどん):  もの惜しみ、貪(むさぼ)りを離れる
・不瞋恚(ふしんに):   怒り、嫌悪を離れる
・不邪見(ふじゃけん):  よこしまなものの見方をしない

十善は、身体(身)に関するもの、言葉(口)に関するもの、心(意)に関するものに分けることができます。

身体(身)に関するもの三つ: 不殺生、不偸盗、不邪淫
言葉(口)に関するもの四つ: 不妄語、不綺語、不悪口、不両舌
心(意)に関するもの三つ : 不慳貪、不瞋恚、不邪見

身口意の3つの観点から身心を見つめていくことは、初期仏教の時代からの基本的な方法となっています。

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第3章思想編 真言密教の思想 6

三句の法門

 三句の法門は、中期密教の代表的経典『大日経』のなかに登場する文言です。
真言密教では伝統的に、冒頭の「入真言門住心品(にゅうしんごんもんじゅうしんぼん)」で教理を説き、次の「入曼荼羅具縁真言品(にゅうまんだらぐえんしんごんぼん)」以降で実践的修行法を説くとします。三句の法門は、この「住心品」において説かれる、いわば『大日経』のエッセンスになります。

「住心品」の冒頭では、
 「一切智智(仏の智慧)とは、どのようなものでしょうか?」
という質問に対して
 「仏のいわく、菩提心と因とし、大悲を根とし、方便を究竟(くきょう)とす」
と答えます。
 これが三句の法門と呼ばれるものです。

 大意は、「最高の智慧は、菩提心(仏の心)を出発点とし、大いなる慈悲を基本とし、それらを実現する手法を究極の目的とする」となります。
 さらに、「いかんが菩提とならば、いわく、実の如く自心を知るなり」(何が菩提(覚り)かというならば、それは、自らの心をあるがままに知ることである)と続きます。これは、「如実知自心(にょじつちじしん)」という言葉でよく知られています。

 如実とは、あるがままという意味であり、真如と呼ぶこともできます。あるがままに真実を知るということは、仏教の最も根幹にある智慧であり、初期の仏教においても「如実知見」(真実をあるがままに知る)という言葉が使われています。また、大いなる慈悲を基本とすることは、仏教の根本精神になります。
 したがって「住心品」のこの文章は、仏教の基本精神である、慈悲と智慧を端的に述べていると考えられます。

 さらに三句の法門では、「方便を究竟とす」(それらを実現する手法を究極の目的とする)と続きます。ここに実践を重視する密教の立場が鮮明に表現されています。方便(巧みな手立て)が重要なのであって、それが無い教理、教説では、実践の役に立たないのです。
 密教は仏教のなかでも現世重視と言われますが、「今生きているこの世界において幸せになる」ことが大切なのであり、そのために方便(巧みな手法)は欠かせないものなのです。

 ブッダは法を広めるに際して、対機説法といって相手に合わせて法を説いたと伝えられます。これは巧みな方便を駆使したと言えるでしょう。したがって仏教の根本に立ち戻れば、「方便を究竟とす」は当然のことかもしれません。
 しかし仏教が部派仏教、大乗仏教と発展するなかで、理論的哲学的発展が進み、相手に合わせた実践的方便が疎かになった面もあったように思われます。密教はそのような状況に対して、想いや理想を実現する手法が大事なのだと、改めて宣言したのではないでしょうか。

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第3章思想編 真言密教の思想 5

2. 密教の思想
 密教は大乗仏教のひとつとして生まれてきたものですから、密教の思想は大乗仏教の思想と異なるものではありません。原始仏教から部派仏教、大乗仏教に至るまで、すべてブッダの教えを元にしているわけですから、当然そこには共通性が存在します。同時に、大乗仏教として独自の思想発展を遂げてきた以上、そこには初期の仏教とは異なる思想が見受けられます。
 ここでは、大乗仏教(密教)の特徴的な思想をいくつか見ていくこととします。

菩薩行
 一般的に大乗仏教の特徴としてあげられることに、利他の重視(菩薩行)があります。利他とは自利に対する言葉であり、自らに利する(自身の覚りを重視する)立場から、他に利する(他人の救済を重視する)立場への転換になります。
 ブッダは慈悲の心を説き、他人に対しては慈しみの心でもって接することがすべての仏教の基本となっています。ですから利他行はブッダの時代から行われていることであり、大乗仏教の新しい行動ではありません。

 しかし初期の仏教においては、覚りを得て涅槃に往くことが最大眼目であると考えられます。涅槃に往くとは、輪廻転生の繰り返しを離れ、二度と苦であるこの世界に生まれないことを意味しています。死は生によって起こりますから、二度とこの世界に生まれないということは、二度と死なないことを意味します。ですから涅槃に往くことを「不死を得る」とも表現されています。それに対して大乗仏教では、涅槃に往くのではなく、この世に生まれ変わり続けて、人びとの救済を行う菩薩行が重視されるようになっていきます。

 空海は、「虚空尽き、衆生尽き、涅槃尽きなば、我が願いも尽きなん」と、すべての衆生を救済するまで菩薩としての願いを持ち続けると記しています。ここには、菩薩としての生き方がよく現れています。
 大乗仏教(密教)は、菩薩として生きる道なのです。

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第3章思想編 真言密教の思想 4

象徴
 曼荼羅は、形のない心を象徴を使って表したものですが、このような象徴の利用は、密教の大きな特徴になっています。
 仏教では元々仏像は作成されなかったのですが、大乗仏教や仏教美術の発展とともに、多数の仏像が作成されるようになりました。これもひとつの象徴です。
  
 密教では、三鈷杵(さんこしょ)五鈷杵(ごこしょ)などの金剛杵や金剛鈴(こんごうれい)など多くの法具が使用されます。ブッダは火を焚くような修法は行ないませんでしたが、密教では護摩において火も使います。これらもすべて密教の法を現す象徴であり、それぞれに法として意味するところがあるのです。

 このように密教では、教えを文章にして経という形で伝えるだけでなく、さまざまな象徴を使って法を伝えるという手法を使います。密教の「密」なるところ、文字や言葉で伝えられないことを、象徴を利用し、五感のすべてを使って感得するのです。

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第3章思想編 真言密教の思想 3

曼荼羅(マンダラ)

 曼荼羅は、元来、儀礼の際に一時的に土壇を設け,その上に粉や砂を用いて作成されていたものです。現在でもチベット仏教では、砂マンダラを作成し、儀礼が終わると全て壊してしまう様を見ることができます。美しい砂マンダラが崩されていく様子は、仏教の基本思想である無常を感じさせるものがあります。
 しかし中国や日本では、掛け軸に図画する形式のものが一般的となり、仏教美術としても貴重なものとなっています。

 曼荼羅は心の世界を現したものであり、様々な仏が描かれています。本来は心に仏を観るものだったのでしょうが、その観想を象徴を使って表現すると曼荼羅となります。曼荼羅が仏の心そのものを現しているとするならば、それは即ち仏法(真理)そのものを意味することになります。つまり曼荼羅は、密教における法(真理)そのものを表現していることになるわけです。

 古来よりさまざまな曼荼羅が作成されてきましたが、真言密教では『大日経』に基づく胎臓生曼荼羅と、『金剛頂経』に基づく金剛界曼荼羅が中心となります。密教の経典とは、法(真理)そのものを現したものですから、密教経典は曼荼羅の記述であると考えることができます。
 密教では法の伝授などを灌頂という儀式を通じて行いますが、曼荼羅はそのような儀式において使用される他、祈りや観想(瞑想)の対象としても使用されています。

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第3章思想編 真言密教の思想 2

1.密教の特徴

大日如来(毘盧遮那仏)~教主の交代
 一般的に仏教の経典は、仏陀(お釈迦さま)の教えであると記述されています。紀元後に作成された大乗経典であっても、仏陀が説かれた教えとして記述されているのです。
 しかし『大日経』『金剛頂経』では、大日如来(毘盧遮那仏)が教えを説いたことになっています。法を説く主体(教主)が仏陀から大日如来に変更されており、ここにそれまでの仏教と密教との大きな違いがあります。

 大日如来は、(マハー)ヴァイローチャナという言葉の意味から訳したもので、毘盧遮那(びるしゃな)は、ヴァイローチャナという音から訳したものです。仏陀は歴史上実在した人物ですが、大日如来は実在の人物ではありません。仏教の法(教え、真理)そのものを仏として現したものなのです。(これを法身(ほつしん)といいます。)
 つまりそれまでの仏教経典が、歴史的に仏陀が説いたこと、あるいは歴史的事実としては仏陀が説いていなくても、説いたという想定のもとに書かれているのに対して、『大日経』や『金剛頂経』は、歴史的事実ではなく、法(真理)そのものを記述しようとしているわけです。
 密教では、仏陀は真理の法を覚った人ではあるが、仏陀が出現してもしなくても、法(真理)そのものは存在すると考え、それを大日如来として現すのです。

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第3章思想編 真言密教の思想 1

Ⅰ.真言密教の思想
 この章では空海に始まる真言密教の思想を中心に検討していきます。空海の密教は、『大日経』『金剛頂経』を基本にするとはいえ、それまでの中期密教とは明らかに異なる部分があります。ここでは、密教の一般的な特徴と空海独自の密教思想の両方を概観していきます。

1. 密教の特徴
 密教の歴史で述べたように、密教は大乗仏教後期に発展した新しい仏教であり、元々は、それまでの仏教を顕教とし、それに対して用いられた言葉です。しかし現在では密教という用語は、もっと幅広く使用されています。
 例えばチベット仏教では、後期の仏教経典をタントラと呼び、所期の仏教経典(スートラ(経))と区別しています。日本における密教とタントラ仏教は、本来一致するものではありませんが、日本では一般的にこれをチベット密教と呼び、密教という概念で扱うようになっています。 (1)
 このように幅広い概念を持つ密教であり、その解釈は人によって異なるところもありますが、ここでは空海の思想(真言密教)をベースにしながら、密教によく見られる特徴を見ていくこととします。

衆生の秘密と如来の秘密
 密教とは「秘密の教え」という意味ですが、その秘密とはいかなる意味なのでしょうか?
空海は『弁顕密二教論』のなかで、「いわゆる秘密に且く二義あり。一には衆生秘密、二には如来秘密なり。」と「衆生の秘密」と「如来の秘密」という2つの観点から秘密を説明しています。 
 衆生(未だ覚らぬ人)は、煩悩に覆われて真実を観ることができません。このような観点を衆生の秘密といいます。覚りというのは決して隠されたものではありませんが、それを見ることができない人にとっては秘密に見えるのです。
 また、通常の言語では伝えきれない直観や体験の世界、神秘体験などの世界を、それを理解する状況やレベルに達せぬ者にむやみに説くことは、かえって害を及ぼすこともあり、このような観点からは如来の秘密と言えます。神秘体験を追い求めていても覚りには近づきません。我欲のために修行をしていれば、悪しき心を育てることにもなりかねません。
 したがって秘密とは、その内容を真に理解するならば、それは遠くにあるものではなく、自心に具わっているものであり、真摯に修行するならば、自ずから開かれてくるものなのです。密教はその言葉から、何やら怪しげで閉ざされたイメージを持つ人も多いようです。しかし、空海が使用した「密教」という言葉は、決してそのような意味ではないのです。

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(1)  チベット仏教では密教経典を、所作タントラ・行タントラ・瑜伽タントラ・無上瑜伽タントラの4つに分類します。初期密教は所作タントラ、『大日経』は行タントラ、『金剛頂経』は瑜伽タントラ、後期密教は無上瑜伽タントラという位置づけになります。
 真言密教では『大日経』と『金剛頂経』を両部の大経として同格に扱いますが、チベット仏教の分類ではフェーズの異なる経典になります。『金剛頂経』やその一部である『理趣経』では、後期密教につながるような思想が見られます。

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