第3章思想編 空海の独自思想

第3章思想編 空海の独自思想 10

現代思想から見た空海

 『即身成仏義』『声字実相義』『吽字義』の三部書に現された空海の思想は、現代思想にも通じる深みのあるものだと思われます。
 『即身成仏義』では、身心二元論でもなく、また一元論でもなく、その両者を超えたところを真実として捉えています。それは、「無碍瑜伽」という言葉に表されるように互いに渉入し合った状態であり、要素主義的な世界観ではなく、関係主義的な世界観を基本としています。
 このような世界観は、ポストモダンと呼ばれる現代の西洋思想の流れに通ずるものがあります。

 『声字実相義』では、「ことば(声字)」と存在との関係に正面から取り組んでいます。
 西洋哲学の世界では、二十世紀に入り、言語と存在の関係についての考察が大きく発展しました。ラッセルやウィトゲンシュタイン以降、「言語こそ哲学の根本問題であり、存在を規定するものである」という思想は、言語学とも関係しながら、発展していきました。
 ブリーフセラピーの祖であるグレゴリー・ベイトソンも、二十世紀の言語哲学の影響を受けながら、コミュニケーション論を打ち立てていきます。空海の声字実相思想とベイトソンのコミュニケーション論との関係については、後の章で考察していきます。

 『吽字義』では、世界の本質を不可得と捉え、不可得である存在を現そうとしています。ブッダは形而上学的問題を無記とし、ウィトゲンシュタインは『論理哲学論考』のなかで「語りえないことについては、人は沈黙せねばならない」と記しています。

 空海は、如実に自心を知るという仏の智慧(一切智智)でもって、不可得であるという真実を知ることを説いています。それは三密加持によって現れる仏の世界であり、単なる知識ではありません。
 自らの心をあるがままにすべてを知るとき、そこに存在する不可得を感得するという空海の思想は、三密加持という実践とともに理解されるべきものであり、世界は不可得であるという知識を得ることではありません。そのような知識では、世界は「語りえない」のです。

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第3章思想編 空海の独自思想 9

汙字一切諸法損減不可得(うじいっさいしょほうそんげんふかとく)
 汙字の字義では、この世界の損減(消滅変化)も不可得であるとします。仏教では古来より、「生じたものは滅する」と説き、それを無常と呼んでいます。
 確かに、因縁より生じたものであるならば、無常であり損減(消滅変化)するでしょうが、因縁により生じたものでないならば、無常であるとは言えないことになります。
 この世界の現象を見れば、結果には原因があり、因と縁によってものごとは起こっています。それは確かに無常です。しかし、訶字と阿字の字義で考察したように、究極の原因を観るとき、世界の本源を観るとき、それは因縁によって生じたのではなく、不可得といえます。したがって、この世界の損減(消滅変化)も、覚りの眼から観るならば、やはり不可得なる存在となるのです。

 空海は、「一心法界(いっしんぽつかい)は、猶(なお)し一虚(いつこ)の常住(じょうじゅう)なるが如(ごと)く」 と、絶対の覚りの世界では、唯一の虚空が常に存在しているようであると述べています。すなわち、不可得を知る仏の眼から見れば、「仏と衆生と同じく解脱(げだつ)の床に住す。此も無く彼も無く無二平等なり」 という、損減のない不変的で平等な世界となるのです。

麼字一切諸法吾我不可得(まじいっさいしょほうごがふかとく)
 麼字について空海は、固定的存在としての我(アートマン)の存在を否定し、無我であると述べるとともに、「唯し大日如来のみ有して、無我の中において大我を得たまえるなり」 と肯定の実義を説いています。
 この大我は、明らかに自我とは異なります。仏教では実体的な自我の存在を否定し、無我を説きます。そのことは空海も同様です。しかし、覚りの眼、一切智智(すべてを知る者)から観るならば、無我のなかに大我があると説いているのです。
 この大我の存在は論理的に認識することはできません。したがって大我はやはり不可得なる存在となりますが、不可得なることを認めた上で、空海は大我の存在性を認めていることになります。

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第3章思想編 空海の独自思想 8

次にこの4字の字義(本質)を順次明らかにしていきます。
4字の字義は、「不可得」という言葉にまとめることができます。

・ 訶字:一切諸法因不可得(いっさいしょほういんふかとく)
・ 阿字:本不生不可得(ほんぷしょうふかとく)
・ 汙字:一切諸法損減不可得(いっさいしょほうそんげんふかとく)
・ 麼字:一切諸法吾我不可得(いっさいしょほうごがふかとく)

訶字一切諸法因不可得(かじいっさいしょほういんふかとく)
 「訶字一切諸法因不可得」 とは、原因の原因を探っていったとき、究極の原因を明らかにすることは出来ないということです。
 結果には原因があります。その原因には、その原因を引き起こす原因があります。そのように原因の原因をたどって行っても、究極の原因は出てきません。なぜなら、究極の原因を見つけたとしても、「その究極の原因はどのようにして出来たのか?」と考えると、その元となっている別の原因が出てくるからです。
 空海は、「訶字は無因待(むいんだい)を以て諸法の因とす」 と説き、あらゆる存在に、固定的実体的な原因のないことこそ存在の真の原因であるとします。

阿字本不生不可得(あじほんぷしょうふかとく)
 「阿字本不生不可得」とは、ものごとが生じるその本となるところを探っていっても、やはりその始まりは見いだすことができないということです。
 しかし世界は現に存在すると考えるならば、世界の存在の根源・本初は、因縁から生じたのではなく、本から不生と考えるしかありません。もし世界の始まりがあるとしたならば、その始まりが起こるための原因が必要になります。しかし、それは世界の始まりの前に何らかの原因があることになり、世界の始まりと矛盾します。したがって世界の根源を徹底的に追究したときには、世界はある瞬間に生じた(創造された)のではないと考えるしかないのです。

(仮に、宇宙がビッグバンによって生じたとしても、ビッグバンが発生する前の世界を考えれば、ビッグバンが世界の本初であるとは言えないのです。)

 この不生であるあり方を「本不生際(ほんぷしょうさい)」ととらえ、空海は、「本不生際を見る者は、是れ実の如く自心を知る。実の如く自心を知るは、是れ一切智智なり」 と述べて、不可得である本不生際を知る智慧を説いています。   
 つまり覚りの段階においては、世界の根源は因縁によって生じたものではなく、本から不生であると見るのです。そしてそれは、自らの心をすべてありのままに見通し、自心を知り尽くすことであるといいます。そのように自らの心を知り尽くす者こそ、一切智智(すべてを知る者)、すなわち仏なのです。

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第3章思想編 空海の独自思想 7

『吽字義(うんじぎ)』

 『吽字義』では、「吽」の一字でもって世界を現し、その一字をさまざまに解釈することによって、この世界の存在の本質(覚りの世界)を明らかにするという書です。世界の象徴として「吽」字を用い、象徴である「吽」を通して、仏法を説くわけです。

 『吽字義』は、吽の一字を字相字義を使って解説しています。字相は文字の表面的な意味、字義はその本質(実義)です。

 『吽字義』では、吽字を訶(かha)・阿(あa)・汙(う )・麼(まma)の4つの文字に分解することができるとしたうえで、訶・阿・汙・麼の4字を詳細に分析します。訶・阿・汙・麼の4字は、世界そのものを現す「吽」字を分解したものですから、この4字を分析することは、即ち、世界全体を分析することを意味します。

4字の字相(表面的な意味)は次のようにまとめられます。

・ 訶(か)字が、一切諸法が因縁より生ずることを明らかにする。.
・ 「一切の字の母」である阿(あ)字が、諸法の実体である空無を明らかにする。
・ 汙(う)字が一切法の、無常・苦・空・無我であることを明らかにする。
・ 麼(ま)字が、一切諸法に我・人・衆生という実体性があることを明らかにする。

 訶字は、ものごとは、原因と縁があって起こることを意味しています。
 阿字は、ものごとの本源を現す文字であり、それは空無であるとみます。
 汙字では、この世界は、無常であり、苦であり、空であり、無我であるとみます。これを損減(そんげん)といいます。
 麼字では、存在のなかに、我という実体、人という存在、生きとし生けるものの存在をみます。これを増益(ぞうやく)といいます。

 以上が吽字を構成する訶・阿・汙・麼(か・あ・う・ま)4字の字相(表面的な意味)です。

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第3章思想編 空海の独自思想 6

コラム<言葉と存在>

 一般的には、言葉の前に客観的存在である世界があり、その客観的存在である世界の一部を人間が認識し、それを言葉を使って表現していると考えられるかもしれません。
 しかし、言葉が世界の存在を現すという思想は、インド哲学にも西洋の哲学にも存在します。

 インド哲学では、ヴァイシェーシカ学派が代表的な言語哲学派になります。
 西洋哲学者であるウィトゲンシュタインは、世界は論理空間であるという言語哲学を展開します。

 私たちが存在について語るときには、それは言葉や論理によって認識されている必要があります。神が実在しているかどうかは証明できませんが、神という概念は言葉や論理によって認識することができます。
 したがって、「(実在を証明できない)神」という存在について語ること(考えること)は可能です。

 しかし、言葉や論理によって認識されないのであれば、そもそも語ることも考えることもできません。語ることも考えることもできないものは、存在していると断言することはできません。存在するかもしれないし存在しないかもしれない、という考え方は妥当ですが、語ることができない以上、永遠に答えはでません。
 したがって、存在は言葉(論理)によって語られるという面から考えると、「この世界の存在は、言葉(論理)とともにある」という思想が生まれてきます。つまり、この世界は言語空間(論理空間)であると考えるのです。

 では、「言葉(論理)が世界の存在である」としたならば、言葉(論理)を超越した世界については、どう考えるべきでしょうか? これについては、哲学者や宗教家によって様々な見解・立場があります。

 二十世紀最大の哲学者とも言われるウィトゲンシュタインは、「語りえぬものについては、人は沈黙しなければならない」と言います。
 空海は、また異なる見解を持ちます。それを空海は『吽字義(うんじぎ)』のなかで説いています。

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第3章思想編 空海の独自思想 5

『声字実相義』

 『声字実相義』は、声字すなわち「ことば」が、実相(この世界の存在の真実のすがた)を表すという思想を説きます。「声字が実相である」という思想には、古来より多くの解釈があります。
 単純に、「仏の言葉は真実の言葉であり、仏の言葉である「真言」こそが世界の真実の姿(実相)を表す」と考えることもできます。そう考えることも間違っていないと思いますが、空海は『声字実相義』のなかで、より哲学的に考察をしています。

 言語が存在を表すという思想は、インド哲学にも西洋哲学にも見ることができます。インド哲学には、代表的な言語哲学派としてヴァイシェーシカ学派があり、「実在するものは、言語表現されるものであり、知られるものである」と主張します。私たちが知ることができるものは、言語によって表現されるものだけであり、この世界の存在は言語によって規定されると考えるのです。
 西洋哲学では、二十世紀にウィトゲンシュタインを始めとする言語哲学が発展しました。言語に依らない存在は認識できないと考え、この世界を言語空間として把握するわけです。

 空海は「声」と「字」に独特の意味を持たせて、空海独自の言語哲学を展開します。
『声字実相義』は、最初に大意を述べ、次にその解釈や説明がなされるという構成になっています。

最初にある大意は

  「それ如来の説法は、必ず文字に籍(よ)る。
  文字の所在は、六塵(ろくじん)その体(たい)なり。
  六塵の本は、法仏の三密、即ち是れなり。」

で始まります。

 「如来(仏)の説法は、必ず文字によって行なわれる」と述べたうえで、文字の根拠は、六塵(色声香味触法という六種の認識対象)であると述べています。現代用語で言えば、視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚の五感と意識が認識する対象のことです。
 そして、その六塵(六種の認識対象)の本源は、仏の身口意三密の働きであるといいます。私たちが認識する世界は仏の働きに満ちており、「声字実相」の根本には、仏の身口意三つの働きがあるというのです。
 そして、覚りの世界(帰るべき根源)は、すぐれた教えによらなければ示すことができず、すぐれた教えは声字によって明らかになる、声字が明らかであってこそ、真実の相が顕わになると説いています。
 空海は、大意の最後に、密教も顕教も仏教以外の教えも、「声字実相」によらないものはないと述べ、「声字実相」は密教だけにとどまらない一般法則であるとしています。

声字実相の大意を述べた後、その解釈・解説が始まります。

 まず、体の内外にある空気(入息、出息)が少しでも動けば、そこに響きがあり、それを声(しょう)と名づけています。別のところでは、世界を構成する、地・水・火・風という四種の構成要素が触れ合うと、そこに必ず音響が生じ、それも声と呼んでいます。
 このことから空海は「声(しょう)」を、単に人の発する言葉だけでなく、大自然の発する「ことば」、森羅万象の「ことば」につながるものとして「声」をとらえていたと考えられます。

そして、声と字と実相の関係を、次のように表現しています。

 「響(ひびき)きは必ず(しょう)による。声はすなわち響きの本(もと)なり。声発(おこ)って虚(むな)しからず。必ず物のを表するを、号してと曰(い)うなり。名は必ず体を招く、これを実相と名づく。声・字・実相の三種、まちまちに別れたるをと名づく。」

現代文にすると次のように解釈することができます。

「響き(音響)はかならず「声(しょう)」によるものであり、声は響きの根本である。
声がおこると、そこに意味が生じ、物事のをあらわすこととなる。
音声によって生じる名を明らかにするものが「」である。
名は、それに対応する実体を示すものであり、それを「実相」と名づける。
声と字と実相の三種が、それぞれに区別あるのを「」というのである。」

 実相とは、この世界の存在の真実(ありのまま)の様相を意味します。その実相(真実の様相)は、「如来の説法は必ず文字による」とあるように、「」によって示されます。
 「字」は、実体につけられた「名」(意味)を表現するもので、「名」は声とともに生じるものですから、世界の実相は、声と字とともにあると考えられます。人は、「声と字」を通して世界を認識しますから、結局、「声と字(声字)こそが実相を表す」と言えるわけです。

 ここで空海がいう声字とは、日常で使用される「言葉」とは異なります。空海は、「五大にみな響きあり」と言い、世界の構成要素(の象徴)である地・水・火・風・空の響きそのものに「声」を見いだしています。
 すなわち、この世界のすべて(森羅万象)の響きすべてを「声」として聞き、それに意味を見出し「字」として表す。この世界そのものが語りかける「ことば(声字)」に耳を傾け、そこに空海は実相(真実の姿)を見いだしているのです。

 これは人の認識という観点からは、次のように説明することができます。
私たちは視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚の五感と意識を使って世界を理解しています。これは、五感や意識でもってある対象を認識したということであり、それはその対象に「名(意味)」を見いだしたことになります。そして、そのように対象を認識できるのは、対象に「声(響き)」があるからです。
 「声(響き)」が無いのであれば「名(意味)」は生じず、したがって私たちはそれを認識することはできません。「声(響き)」があるからこそ「名(意味)」が生じ、私たちはそれを認識することができ、それを「」で表すことができるのです。
 そしてこの世界は、「五大に響きあり」とあるように、すべてのものは「声(響き)」を伴っているのですから、この世界の存在(実相)は、声と字で現されることとなるわけです。

 仏教では一般的に「因分可説・果分不可説」と言い、覚りの世界(果分)は言葉では説明ができないとします。しかしこの世界の本質を無碍瑜伽と見、色心(物質と精神)の区別、能所(主体と客体)の区別もないとする空海は、この世界に現れる「ことば(声字)」こそが、真実を表していると見ているわけです。

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第3章思想編 空海の独自思想 4

「重重帝網なるを即身と名づく」

 あらゆる身体が、帝釈天の持つ網にある宝珠のように、幾重にも重なり合い映しあうことを、即身といいます。この様は、鏡に写った像を互いの鏡で相互の写しあうように、あるいは、多数の灯明が互いに照らしあい渉入しあって渾然一体となっていることに例えられています。

 さらに、
「仏身、即ち是れ衆生身、衆生身、即ち是れ仏身なり。不同にして同なり、不異にして異なり。」(仏の身体は、すなわち衆生の身体であり、衆生の身体は、すなわち仏の身体である。不同にして同一であり、不異にして異なるのである。)
と述べ、仏と私たちが実は異なるものではないことを説いています。

 このように、仏も衆生も、あらゆるものが互いに渉入し合い一体となっている様相を世界の本質と観て、それを「即身」としたのです。

 以上見てきたように、即身成仏の偈頌は、世界の存在の本質を踏まえながら、それがこの身心に顕われる仕組みを格調高く説いています。
 空海は幾重にも重なり合い無碍瑜伽する世界の本質的な存在のあり方がこの身心に表れていることを「即身」としています。そしてそのことをあるがままに知るがゆえに、自身が仏であることを感得するのです。

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即身仏と即身成仏 
即身成仏を、生きたまま食を断ち、ミイラとなっていくものと勘違いしている人は、意外に多いように思われます。このようにミイラ化した身体を仏とするのは、即身仏といい、即身成仏の思想とはまったく異なるものです。

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第3章思想編 空海の独自思想 3

「三密加持して速疾に顕わる」

 三密とは、身口意(しんくい)の三つの仏の働きを意味します。身体(身)、言葉(口)、心(意)の3つの観点から自身を捉えることは、初期仏教の時代から行なわれてきたことです。しかしそれまでの仏教では、身口意の三業という使い方が一般的であり、身体(行い)、言葉、心の悪業を戒め善業を勧めるという用い方をします。

 この身口意を仏の観点からとらえ、身密・語密・心密の三密の加持によって、速やかに覚りの世界が現れると説いています。法仏の深遠なる働きを「密」といいますが、空海は衆生(凡夫)の身口意の働きも、また仏と同じであるといいます。

 本来、仏と同じ働きを持つ衆生は、仏の三密と加持することができます。『即身成仏義』によれば「加持とは、如来の大悲と衆生の信心とを表す。仏日の影、衆生の心水に現ずるを加と曰い、行者の心水、よく仏日を感ずるを持と名づく。」とあります。
 加持を「加」と「持」に分けて解釈するのは、空海の独創的な教説です。『大日経』は正式名を『大毘盧遮那成仏神変加持経』といい、ここでは加持を「神変加持」や「神力加持」の意味で使われています。すなわち、如来の示す不可思議な神変や威神力が加持(神変加持)であると考えられます。

 空海はこのような『大日経』に加持概念を踏まえて、衆生に「持」を当てることで、衆生にも加持のあることを示し、衆生のなかにある仏を表しています。
 また空海は、『大日経開題』の「法界浄心」において、加持を「入我我入」としています。仏が我に入り我が仏に入り、真に一体となっているならば、もはや仏と衆生を分けることもできません。
 これは、「加」と「持」に分けた『即身成仏義』の説明と異なることとなりますが、空海は加持の真の状態を「入我我入」として示すとともに、「加」と「持」に分けることで、修行の道を示したものと私は考えています。

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第3章思想編 空海の独自思想 2

「四種曼荼各離れず」

 四種曼荼(ししゅまんだ)とは、大曼荼羅、三昧耶(さんまや)曼荼羅、法曼荼羅、羯磨(かつま)曼荼羅の四種類の曼荼羅を意味します。

 大曼荼羅とは、仏や菩薩の姿形、形像を現した曼荼羅です。この世界そのもの、森羅万象を、いわば象徴的に現したものになります。
 三昧耶曼荼羅とは、諸尊を象徴する種々の持物や印相を備えた曼荼羅です。刀剣や輪宝、金剛杵(こんごうしょ)、鈴(れい)などの持物があります。これは、仏の意(心)、仏の本誓、誓願を現していると考えられます。
 法曼荼羅は、諸尊の種字真言を備えた曼荼羅です。種字真言は、インドの梵字一字でもって、仏を現したものです。種字は仏の言葉であり、仏の法(世界そのもの)を現す言語になります。空海は、文字が仏の言葉として世界そのものを現すという思想を『声字実相義』のなかで述べています。
 羯磨曼荼羅は、諸尊の行為や作用を示す曼荼羅です。鋳像を並べた立体曼荼羅も羯磨曼荼羅と呼ばれます。一切事物の活動・作用を現したもので、仏の活動(身)の象徴であると考えられます。

 つまり、大曼荼羅は世界全体を現し、それを意(心)、口(語、言語)、身(活動)の3つの観点から現したものが、三昧耶曼荼羅、法曼荼羅、羯磨曼荼羅になるわけです。

 この世界を構成する六大が無碍瑜伽であるならば、当然種々の曼荼羅もまた互いにさまたげることなく渉入し合う無碍瑜伽なる存在となります。
 ここでは、大曼荼羅、三昧耶曼荼羅、法曼荼羅、羯磨曼荼羅の四種の曼荼羅が、その数無量であり、ひとつひとつの大きさは虚空に等しいと述べられています。そして各々の曼荼羅は、互いに関連しあい離れることがなく、世界の真実の様相(姿)を表しているのです。

 空海は、このように離れることがないということを、「即」の意味であるとします。

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第3章思想編 空海の独自思想 1

3. 空海の独自思想
 空海は中国(唐)で恵果から直々に密教を伝授され、日本に戻って真言密教を確立しました。恵果から伝えられた『大日経』『金剛頂経』を基本経典とし、その教義を引き継ぐとともに、独自の真言密教教義を多数の書により表しています。
 空海の密教思想を最も端的に現す書として、『即身成仏義(そくしんじょうぶつぎ)』『声字実相義(しょうじじっそうぎ)』『吽字義(うんじぎ)』の三部書があげられます。そこでこの三部書を参照しながら、空海の思想を見ていくこととします。

『即身成仏義』
 「即身成仏」という言葉は、空海の思想を語る場合に頻繁に引用される重要なキーワードになります。
 『即身成仏義』は、最初に空海の偈頌(げじゅ)があり、その後にその偈頌を解説するという形式になっています。『即身成仏義』の偈頌は、次の言葉で始まります。

  六大無碍(ろくだいむげ)にして常に瑜伽(ゆが)なり
  四種曼荼(ししゅまんだ)各(おのおの)離れず
  三密加持(さんみつかじ)して速疾(そくしつ)に顕(あら)わる
  重重帝網(じゅうじゅうたいもう)なるを即身と名づく


「六大無碍にして常に瑜伽なり」
 この偈は、この世界の存在のあり方を端的に表しています。空海は、世界の構成要素を五大に識大(精神要素)を加えた六大とします。五大とは、地・水・火・風・空 の五つを意味します。大乗仏教では一般に、世界はこの五つの要素から成り立つとします。空海はこれに識(精神要素)を加え、この世界の本質的な存在(実在)の象徴として六大を使用しています。

 空海は、この六大が、常に無碍瑜伽であるといいます。無碍瑜伽とは、互いにさまたげることなく自在に渉入し合う様を現しています。この世界の本質的な存在(実在)は、他と関係なく独立しているのではなく、互いに関係し合うなかで存在しているのです。

 識大は、「因位を識と名づけ、果位を智という。智即ち覚なるが故に。」と説明されています。つまり、「因位(いまだ覚らぬ衆生の段階)においては識と呼び、果位(さとりの段階)においては、それを智と呼ぶ。智とは即ち覚りである。」ということです。したがって識大は、覚りへの智慧を意味すると考えられます。

 五大と識大は、色と心(物質と精神)とも解されます。空海は「心・色異なりといえども、その性即ち同なり。色即ち心、心即ち色」(精神と物質は異なるものであるが、その本質を見れば異なるものではない。物質は精神であり、精神は物質である。)と説いています。
 つまり、この世界を物質と精神に2分して考える身心二元論ではなく、色心(物質と精神)の区別を超えた世界を、この世界の本質と空海は観ていることになります。

 また、「能所(のうしょ)の二生有りといえども、都て能所を絶えたり」とあります。能所とは、能生(のうしょう)と所生(しょしょう)のこと。能生とは、この世界を生み出す主体であり、所生とは、この世界の現象・生み出された客体のことです。
 しかしそのような区別も、本質から見ればないというのです。この世界の存在は、「生みだすもの」と「生み出されたもの」という別々のものではなく、すべての存在(一切の存在)は、互いにさまたげることなく渉入し合って存在しているのです。

 空海は、このように無碍瑜伽(相応渉入)する存在のあり方を「即」の意味だとしています。

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