第3章思想編空海とコミュニケーション心理学

第3章思想編 空海とコミュニケーション心理学の思想4

2.空海とコミュニケーション論
不可知な世界を語る空海


 しかし空海は法身(ほっしん)が直接に説法するという概念を用いることにより、「果分可説」を主張します。法身とは、真理そのものを仏として現したものです。法身の言葉である真言(真実語)は、実相(真実のあり方)そのものであるとするのです。これを空海は「法身説法」や「声字実相」という言葉を使って説明しています。

 空海は『声字実相義』や『吽字義』のなかで、果分である実相(本質的な存在)を可説として説いています。『吽字義』は、存在を字相(表面的な意味)と字義(本質・実義)を使って解説しています。字義においては「不可得」という概念を使いながら存在の本質を述べています。

・ 訶字一切諸法因不可得(かじいっさいしょほういんふかとく)
・ 阿字本不生不可得(あじほんぷしょうふかとく)
・ 汙字一切諸法損減不可得(うじいっさいしょほうそんげんふかとく)
・ 麼字一切諸法吾我不可得(まじいっさいしょほうごがふかとく)

 ここにおいて空海は、不可得であることこそこの世界の本質であると説き、不可得であることを知ることこそ仏(覚り)の道だとするのです。それは如実智自心(あるがままに己が心を知る)という道であり、三密加持の実践のなかにこそ存在するものなのです。
そして真に不可得を知るとき、「大日如来のみ有して、無我の中において大我を得たまえるなり」 という世界を知ることとなります。
 これは学問的な知識ではなく、不可得である智、無分別の智(根本智) と言えます。自らの心を知りつくしたところに知る不可得は、その人自身が知る世界です。森羅万象の声、大日如来の声は、その人自身が聞くものであり、その人自身にとっての声なのです。

 鎌倉時代の僧親鸞は、「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり。」と『歎異抄』 のなかで述べています。「親鸞一人がため」という言葉は、仏の声が普遍的客観的に存在するのではなく、自己(自身)との関係において存在することを意味すると考えられます。自分自身の問題として捉えないかぎり、実践宗教としての仏教は意味を成さないでしょう。
 
 空海は、単なる学者でもなければ単なる思想家でもありません。そこが、社会構成主義などの思想や哲学と異なるところです。空海の法は、覚りへの道であり救いへの道です。空海は学問ではなく、ひとりひとりにその実践を説いているのです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

第3章思想編 空海とコミュニケーション心理学の思想3

不可知なる真実の存在

 社会構成主義は、語用論的なコミュニケーション論を展開しますが、存在に関して、大きく二つの思想に分けることができます。
 浅野智彦氏は、社会構成主義の命題を「あらゆる現実は、言説に媒介された相互行為によって構成される」とした上で、2種類の命題を提示します。

1.事実の有無自体も相互行為によって構成される。
2.事実の有無自体は不可知論をとる。

 「事実の有無自体も相互行為によって構成される」という立場では、言葉(言説)が無ければ客観的世界も存在しないと考えます。世界は常に言葉(言説)とともに存在するのであって、言葉(言説)が現れないときには世界も事実として存在しないと考えます。
 これは、主観的な世界と客観的な世界の二元論的思想を完全に排するという面では徹底していますが、「認識とは関係なく、物理的・客観的に世界は存在する」と考える人には、受け入れがたい思想と思われます。

 ケネス・ガーゲンは、言葉(言説)の無い世界は認識することが不可能なので、「事実の有無自体は不可知」としています。つまり人間が認識できる範囲以外のことは語らないという姿勢です。これは穏当な考え方ではありますが、人間には認識できない世界の存在を感じさせるところがあります。

 いずれにしても社会構成主義では、「唯一絶対の事実」というものを認めていません。事実は常に言説とともにあるのであり、言説が変われば事実は変わります。
 心理療法的なアプローチでは、常にその相対的な立場を維持し、言説(コミュニケーション)によって、物語りを書き換えていくことになります。

 仏教の世界では「因分可説・果分不可説(いんぶんかせつ・かぶんふかせつ)」といい、覚りの真実の世界は言葉で表すことができないとするのが一般的です。(因分は未だ覚らぬ衆生の段階、果分は覚りの世界)。空をコンテキストの観点で考えた場合も、言葉で表すことはできませんでした。
 そもそもブッダは、現象していることではない形而上学的なことに対しては「不可知」とする姿勢を取ってきました。ブッダは、瞑想や智慧によって通常の人間が認識できる範囲を遥かに超えた世界を認識しましたが、その究極的な認識力をもってしても理解できない世界、人間が本質的に理解できない世界については不可知としています。

 このような仏教の世界観は、社会構成主義の「あらゆる現実は、言説に媒介された相互行為によって構成される」と「事実の有無自体は不可知」とするケネス・ガーゲンなどの説に相当すると考えられます。
 この現実世界に現象するものは「縁起≒相互行為」によって構成され、この世界の本質「果分(真如)≒事実の有無」は不可説となります。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

第3章思想編 空海とコミュニケーション心理学の思想2

2.空海とコミュニケーション論
 次に声字は実相であるとする空海の説と、コミュニケーション論の関係について考えてみます。コミュニケーション論は、ケネス・ガーゲンの社会構成主義思想を中心にして、両者の共通するところと異なるところを検討します。

声字実相とコミュニケーション論
 まず、空海の声字実相思想と社会構成主義の共通性を検討してみます。
 ケネス・ガーゲンは、社会構成主義の4つのテーゼの1番目を「私たちが世界や自己を理解するために用いる言葉は、「事実」によって規定されない。」 としています。私たちが普段使用している言葉は、世界の真実そのものを表す手段とは成りえません。これは洋の東西を問わず広く受け入れられている考えだと思われます。
 その上で2番目のテーゼ「記述や説明、そしてあらゆる表現の形式は、人々の関係から意味を与えられる。」 とあります。私たちの認識はアナログ・デジタルを含めた「言語」によって構成されており、その「言語」は関係のなかで存在し、意味を創造していくものです。つまり、客観的世界を言語によって認識していくのではなく、言語(コミュニケーション)の存在が(私たちの認識できる)世界を創造していくのです。したがって、存在はコミュニケーションと共にあると考えることができます。

 『声字実相義』では、「声」が物の「名(意味)」を生み出し、それを「字」によって明らかにするとあります。「声」は、地・水・火・風という世界の構成要素が触れ合うことによって生じる響きです。即ち「声」は単独で存在するものではなく、互いに触れ合うという関係の中から生じてくるものであり、物の名(意味)はその関係をベースにして誕生するものと考えられます。
 つまり、互いに関係することがなければ、響きもなく、声もなく、物の名(意味)もなく、字もなく、そして実相(真実の様相)もないこととなります。

さらに『声字実相義』では、「内外の依正(えしょう)に具す」 「大小の身土互いに内外と為り、互いに依正と為る」と説いています。
 依正とは、依報(環境世界)と正報(生きとし生けるもの)のことです。内的存在である衆生と外的存在である環境世界が、それぞれ独立して存在するのではなく、互いによりどころとなり、関係のなかで存在しているというのです。

 ベイトソンは、「生物と環境」とのコミュニケーションのなかに、精神というシステムを見ています。「生物+環境」が進化の単位であり、生存の単位であり、そして精神の単位でもあると主張します。衆生と環境の相互関係を見る空海の眼と、ベイトソンの「生物+環境」にある精神システムは、共に世界に存在する「関係」を洞察していると考えられます。
 「関係」という観点から見たときに、空海の思想と社会構成主義やコミュニケーション論の間には、共通する点を多数見ることができます。存在を関係から見る、つまり「存在とは関係である」という点において両者は一致すると考えられます。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

第3章思想編 空海とコミュニケーション心理学の思想1

Ⅲ.空海とコミュニケーション心理学の思想
 これまで見てきたように、空海を祖とする真言密教の思想と、グレゴリー・ベイトソンに始まるブリーフセラピー(コミュニケーション心理学)の思想は、当然異なるところもありますが、いくつかの共通性も見受けられます。
 ここでは思想的な観点から、密教とブリーフセラピーを比較してみます。

1.空とコンテキスト
 空は大乗仏教の最も代表的な思想のひとつです。空は立場や文脈によって様々な解釈が存在しますが、その基本となる思想は一連の『般若経』によって表され、ナーガルジュナ(龍樹)を祖とする中観派によって体系化されています。
 空の思想は、大乗仏教の中心的な思想となっていきますが、その基本となるところは、すべてのものはそれ自体で自性を持たず、縁起によって成り立つということです。すなわち、物であれ心であれ、それ単独でこの世界に存在するということはなく、縁起によって一時的に現象していると見るのです。
 縁起によって現象するとは、すべてのものは他のものに依存して生起し、存在し、消滅することを意味します。他の原因や条件に依存せずに存在するものはありません。ものの本質は、この依存性(縁起)にあると見るのです。そして、他の多くの原因や条件に依存して一時的に存在しているものに、固定的な本体は存在せず、それは空なのです。

 空の思想における縁起は、原因と結果という一方向の因縁ではありません。多くの原因や条件に互いに依存する双方向の縁起となります。
『般若心経』には「一切皆空(いっさいかいくう)」すべては空(すべては自性を欠いている)と説かれています。これは、すべての存在は縁起によって起こることを意味しています。縁起とは実体ではなく、ものを存在(生滅)させる働きです。この縁起の働きを空と呼んでいるのです。
 空海はこの双方向の縁起という考え方をさらに深め、世界の存在を「六大無碍瑜伽」と表現し、互いにさまたげることなく自在に渉入し合う関係を存在の本質としています。空海の思想は、空の思想をひとつの基盤として構築されているのです。

 この空の思想を、コミュニケーション論におけるコンテキストの観点から考えてみます。コンテキストは言葉(コンテンツ)に意味を与えるものです。言葉が世界の存在を現すと考えるならば、言葉に意味を与えるということは、この世界の存在に意味を与えることになります。
 ゲームという用語を使うならば、事実は、ゲームのうえで初めて意味を持ち事実となります。チェックメイトなどのチェスの用語は、チェスというゲームの上で初めて意味を持ちます。ゲームが変われば、チェックメイトが意味することも変わり、異なる世界となります。
同様に、全ての事実は特定のゲームの上でそれぞれの意味を持つことになります。したがって、事実とは普遍的事実ではなく、そのゲームの上の事実になります。同じ現象であっても、ゲームが変わればその意味は変わり、事実とされることが異なってきます。
 ここでいうゲームとは、あるコンテキストを意味しています。したがってこのゲームの例えは、「あるコンテキストの上で言葉に意味が生じ、それが事実となる」と表現することができます。逆に言えば、コンテキストのないところには、意味は生じず事実もない、つまりコンテキストがなければ、存在自体がないことになるわけです。

 このように、ものを存在させる働きをコンテキストと考えならば、それは縁起の働きと同様のものとなります。その縁起の働きを空と呼ぶのですから、空はこの世界の現象(コンテンツ)に対するコンテキストと考えることができます。
 しかしゲームの例えと空には異なるところがあります。ゲームは普遍的・根源的な事実を意味するのではなく、ゲームごとの個別の事実を生み出します。それに対して空は、「一切皆空」とあるように、一切の事物に普遍的に存在する本質を現そうとしています。
したがって空は、すべての事物(一切のコンテンツ)を存在させる普遍的・根源的なコンテキストと考えることができるでしょう。

 しかし、普遍的・根源的なコンテキストの説明は困難です。コンテキストはコンテンツに意味を与え、この世界に存在させるものですから、コンテキスト自体の説明を行おうとすれば、そのコンテキストに意味を与える別のコンテキストが必要になります。説明とは、ある意味を与えることですから、コンテキストの説明とは、コンテキストをコンテンツ化し、別のコンテキストでもって意味を与える作業といえます。
 そうであるならば、この世界(一切のコンテンツ)を存在させているコンテキストの説明は、論理的に不可能となります。なぜなら、この世界のすべてを含むコンテキストに意味を与える、さらに大きなコンテキストは、認識不可能だからです。

 古来より、「空は言葉では説明ができない」、「言葉で説明したときに空は空でなくなる」、「言説を離れたものが空である」などと言われてきましたが、コンテキスト論から考えてもそうなるでしょう。空を言葉で説明した時点で、空はこの世界の根源的なコンテキストではなく、ひとつのコンテンツとして扱われていることになります。その時点でそれはもはや空ではないのです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)